“勧誘”されたのに…まさかの不合格で「野球やめようかな」 元新人王、初めての挫折

オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】
オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】

熊野輝光氏は第1志望の高松一に不合格、第2志望の志度商に進んだ

 元阪急外野手で1985年パ・リーグ新人王の熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は1973年、香川・三木町立三木中学から、香川県立志度商(現・志度高)に進学した。走攻守3拍子揃った好選手と中学時代から評判でいくつかの高校から声がかかったが、野球で進学したのではない。「普通に受験しました」。第1志望の学校に落ちてしまい「あの時は野球をやめようかと思った」と明かした。

 中学時代から知る人ぞ知る逸材だった熊野氏は、地元・香川を中心にいくつかの高校から誘われたという。「当時は今みたいな取り合いみたいとか、そんなのではなかった。来て下さい、みたいな感じで試験を受けてくださいってことで……」。高松商、高松一、志度商と進学先の候補になったのはすべて公立校。「(野球の)セレクションとかそういうのはないし、普通に試験を受けただけです」。

 熟考の末、第1志望は、「怪童」と呼ばれた中西太氏(元西鉄内野手)や近藤昭仁氏(元大洋内野手)がOBの高松一、第2志望を志度商にしたという。高松一に行く気満々で受験したが、結果は不合格で、第2志望の志度商に合格した。「えーって思ったし、めちゃくちゃショックでしたよ。もう野球をやめようかなぁと思いました」。初めての挫折だったのだろう。だが、そこから気持ちを切り替えた。「一高には負けたくないと思って野球を続けました」。

 志度商には自宅から自転車で通学した。「高松だったら電車で行けたんだけど、志度の場合は電車なら、えらいまわらなきゃいけないし、それなら自転車の方が早いってなったんだけど、それでも片道1時間はかかった。行きはまだ坂道の下りも多いので飛ばせば50分くらいで行けたけど、帰りは坂道を上がって行く方だから、1時間半くらいかかりました。まぁ、それでまた足腰は鍛えられましたけどね」。

1年からレギュラーも…夏は“因縁”の相手に敗退

 帰りはいつも遅くなった。「ナイター設備もあったんでね。電車組というか汽車組は最終があるから終わるのが早いんですよ。(自転車通学の)僕らはそこからまた片付けやグラウンド整備やらがあって……。腹も減るので売店に寄って何か食べたりして帰ったりすると、家に着くのが12時前っていうのもよくありましたね」。熊野氏は1年から右翼のレギュラーの座を獲得した。「最初は2番くらいを打って途中から1番。足も速かったし、肩も強かったんでね」。

 1年でレギュラーは1人だけ。「昔ですから(先輩には)よう殴られましたけどね」。1973年の1年夏は香川大会2回戦で敗退した。1回戦は石田に18-0で大勝したが、2回戦で高松一に0-4で敗れた。「因縁の相手でしたね。確か僕は打ったと思うんですけどね……」。中学から左打ちに取り組み、中3の時はスイッチヒッターだったが、高校に入って左打ちに専念。結果も出していたが、よりによって最も負けなくない高松一に苦杯を喫したわけだ。

 1年秋からは遊撃手。「その時から監督が鎌倉(孝一)さんになりました。ゆくゆくは中央大学の先輩なんですけど、左バッターで、バッティングはすごい人。ああせい、こうせいとかは、あまり言われなかったですけど、僕の恩師の1人です。チームはその年が一番強かったと思います。いいピッチャーもキャッチャーもいたし、のちに大阪ガスの監督までしたひとつ上の先輩(更紗忠海氏)がセカンドにいたしね」。

 しかし、甲子園の道は簡単ではなかった。1年秋は香川大会準決勝で丸亀商に2-5で敗戦。1974年の2年夏は香川大会準々決勝で因縁の高松一に6-4でリベンジしたものの、準決勝でまたも丸亀商に4-7で敗れた。「丸亀商の山下さん、1年上の左ピッチャーにやられました。負けた時はやばいなと思いましたね。これで勝てなかったのだから、僕らの代になったらどうなるんやろってね」と話したが、そこから熊野氏はレベルアップ。また苦い経験をバネにする。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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