ドラフト1週間前に「申し訳ない」 熱烈勧誘も破談…“代役”に奪われたプロ入り

オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】
オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】

元阪急・熊野輝光氏、社会人3年目の日本選手権で大会優秀選手

 これも運命だったのか。阪急・オリックスで活躍した元外野手の熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)は社会人野球・日本楽器(現ヤマハ)3年目(1982年)に近鉄入りの可能性があったという。「左バッターが欲しいということで熱心に来られていたんですけどね……」。しかし、それは幻に終わった。近鉄の球団方針が社会人の右打者補強にシフトチェンジ。「ドラフト1週間前に『申し訳ない』と言われました」と土壇場でひっくり返った。

 中大から日本楽器入りした熊野氏は社会人1年目から三塁レギュラーの座をつかみ、力を発揮。社会人2年目(1981年)はインターコンチネンタルカップの日本代表にも選出された。だが、大会開催地のカナダに入った時に右肩痛を発症し、出場できずに終わった。日本は6位だった。その後、整体によって右肩の状態は元に戻った。1982年の社会人3年目シーズンには間に合い、日本楽器が1回戦で敗退した都市対抗にも出場した。

「この年はサードではなく、外野になりました。まぁあまりうまくなかったからサードはクビになったんじゃないですかね」と熊野氏は苦笑しながら振り返ったが、中大4年時と同じ外野になったのは自身にとってはプラスだったという。「大学の時もショート、サードから外野になりましたけど、やっぱり僕の場合は外野の方が、負担がないので打つ方も充実してくるんですよね。守備に関する精神的な不安が消えますから」。

 日本楽器では3番打者。「4番は1歳年上で右バッターの武居(邦生)さん。全日本の4番を5年間も打った人で、凄い人で、憧れの人。のちに(出身大学の)国士舘大の監督や、DeNAのスカウトもされた方ですけどね」。熊野氏はそんな偉大な先輩に追いつけ、追い越せの気持ちで取り組み、日本楽器が準々決勝まで進出した1982年の社会人野球日本選手権では外野手で大会優秀選手にも選ばれた。2年目に怪我で苦しんだのが嘘のように復調した。

右肩痛だった自身の“代役”選手を近鉄が2位指名「あちゃーっ」

 その年に近鉄のスカウトから声がかかったという。「社会人の左バッターが欲しいということで近鉄さんがけっこう熱心に来られていたんですよ」。当時25歳だった熊野氏は「プロに行くことも考えていました。もしも、ドラフトにかかっていたら、行っていたかもしれない」と話す。しかし、それは実現しなかった。近鉄のドラフト方針が社会人選手は左打者ではなく、右打者獲得に変わったからだった。

「ドラフトの1週間前に近鉄さんが来られて『申し訳ない』と言われました」。1982年、近鉄はドラフト2位で谷真一内野手(本田技研)、同3位で佐藤純一外野手(秋田相互銀行)の2人の社会人野手を獲得したが、実際にいずれも右打者だった。「その時、近鉄が指名した谷は、(1981年のインターコンチネンタルカップで)僕が右肩を痛めて出られなかった時に、僕の代わりにサードを守った選手。何かのいたずらなのか、あちゃーって感じでしたけどね」。

 他球団からの指名もなく、年齢的にプロは厳しくなってきたと感じたという。「(社会人)4年目(1983年)はもうプロからの話なんて聞きませんでしたからね。もう26(歳)でしたし……」。その流れがまたまたプロに変わるのは社会人5年目(1984年)だ。ロサンゼルス五輪が熊野氏の野球人生を大きく左右した。「オリンピックが僕の運命を変えたと思います。あそこでの活躍が大きかったんだろうなと思います」。

 1983年に日本代表はロス五輪(野球は公開競技)の代表決定戦で郭泰源投手(元西武)を擁する台湾に敗れて、出場権を獲得できなかった。ところが、その後、キューバがロス五輪ボイコットのソ連に同調して出場を辞退。日本が代替で出場となった。熊野氏は五輪代表決定戦時には日本代表ではなかったが、新しくチームを変えての五輪メンバーに選ばれて、主将も務めた。そして1984年の本番では金メダルを獲得。これがプロ入りの道を切り開くことになった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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