新人に指揮官激怒「勉強しとけ!」 スタメン外も…代走から「3、3、3」の離れ業

オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】
オリックスや巨人で活躍した熊野輝光氏【写真:山口真司】

熊野輝光氏は1年目で開幕スタメンも…すぐに不振に陥った

 元阪急外野手の熊野輝光氏(四国IL・香川オリーブガイナーズ監督)はプロ1年目の1985年から活躍し、同年のパ・リーグ新人王に輝いた。しかし、開幕直後は不振に陥り、上田利治監督から「ベンチで勉強しとけ!」と厳しく指摘されたこともあったという。その状況から抜け出せたのは、先輩の簑田浩二外野手が死球を受けて離脱したことも大きく関係した。それをきっかけに出場機会を得て、3試合連続3ランの離れ業をやってのけて勢いに乗った。

 1984年ドラフト会議で阪急に3位指名(ヤクルトと競合)されて入団した熊野氏は1985年のプロ1年目、高知での春季キャンプを順調にこなした。その年の8月に28歳になるオールドルーキーは1年目から勝負と考えて気合も入っていた。オープン戦は最初のカードが阪神戦。1戦目は阪神キャンプ地の高知・安芸市営球場、2戦目は阪急キャンプ地の高知市営球場で行われたが、いきなり好結果を出した。

「安芸では工藤(一彦)さんからだったかな、ホームランを打ったんですよ。で、次の日の高知でもホームランを打ったと思う。それで(マスコミが)“えらい新人や”って騒いでくれて、印象がついたというか……」。さらに注目度も増していって、新人で開幕スタメンの座もつかんだ。「オープン戦の最後の方はバテてしまって、全然駄目だったんですけど、そういう形になりましたね」。

 4月6日の開幕・南海戦(西宮)に熊野氏は「7番・中堅」で出場した。その日は3打数無安打だったが、2戦目(4月7日)の同カードは2打数1安打1四球。3回に南海先発の加藤伸一投手からプロ初安打となる中前打を放った。しかし、調子は上がらず、開幕6戦目の4月13日の近鉄戦(藤井寺)からはスタメンも外された。「あの時ね、(監督の)上田さんに言われたんですよ。『お前、ベンチで勉強しとけ!』って」。

主力の故障離脱で得たチャンス…予期せぬ3戦連続3ラン

 プロで最初の試練だったが、そこから思わぬ形で抜け出した。スタメン落ちして4試合目の4月17日の日本ハム戦(後楽園)で「3番・右翼」の簑田浩二外野手が田中富生投手から死球を受けて交代。熊野氏が代走で出て、中堅の守備に就いた(右翼は左翼から小林晋哉外野手、左翼は中堅から福本豊外野手)。0-4で迎えた8回に“ドラマ”が起きた。「田中富生はノーヒットピッチングをしていたんだけど、その回に村上(信一外野手)が初ヒットを打ってそこから……」。

 その回に阪急は2点を返し、2-4となって熊野氏に打席が回ってきた。「一、三塁だったかな。そこで逆転3ランを打ったんですよ」。これがプロ初本塁打で、プロ初打点。試合も5-4で勝利した。翌18日の同カードも簑田離脱ということもあって「6番・中堅」でスタメン。3回に左腕・西村基史投手から2号3ランを放った。「西村は(社会人時代の)全日本の時に新日鉄広畑から来ていたので、球筋とかもだいたい知っていた。その通りに来たのでね」。

 さらに4月19日の西武戦(平和台)では初回に川本智徳投手から3号3ラン。「またランナーを2人置いてね。何か、あの時はそんなんになったんですよね」。3日連続3ランで熊野氏の名前は驚異の新人として、また轟いた。「“3、3、3”とか言われてね。その次の試合もランナーが2人いて、回って来て、またかなって思った。そうは簡単にいかなかったですけどね」と笑うが、これで上昇気流に乗った。

 5月は5本塁打を放つなど活躍。5月5日の西武戦(西武)では3番・ブーマー・ウェルズ内野手、4番・松永浩美内野手の後の5番で起用されるなど、たびたびクリーンアップも任された。5月下旬に簑田がスタメンに戻っても熊野氏は中堅レギュラーの座をキープ。「左翼・福本、中堅・熊野、右翼・簑田」が当時の阪急の基本的な外野布陣となった。「6番・中堅」で出た6月20日の西武戦(西宮)では新人で2桁10号に到達した。

 すべては簑田の死球から始まった。「あの時、大熊(忠義)さんがコーチで『俺もそうだったけど、やっぱりそんなのがなければ駄目なんだ』って言われました。『だからお前も気をつけとけよ、野球選手、変わり目の時はそういうもんだ』ともね」。大熊コーチは現役時代の1978年に死球を受け、それをきっかけに簑田にポジションを譲っており、そのことを踏まえての話だった。「そういうのも含めて、チャンスをつかめるかですよね」と熊野氏は振り返った。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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