報道陣に晒された“珍練習”「もう恥ずかしかった」 大打者がやけ酒…忘れぬ苦い記憶

近鉄で活躍した羽田耕一氏【写真:山口真司】
近鉄で活躍した羽田耕一氏【写真:山口真司】

羽田氏は1980年に自己最多30本塁打…9~10月に13HR

 現役時代、近鉄一筋でプレーした羽田耕一氏はプロ9年目の1980年にキャリアハイの30本塁打を放った。特に9月、10月の終盤2か月は13本塁打と絶好調でチームを後期優勝に導き、3勝0敗で制したロッテとのプレーオフでも第1戦(10月15日、川崎)で2ランをかっ飛ばし、近鉄の2年連続リーグ制覇に貢献した。もしかしたら“恥ずかしい練習”が、打棒爆発のきっかけになったかもしれないという。それは、夏のある日の藤井寺球場の打撃ケージの後ろで……。

 1980年の羽田氏は4月5日の南海との開幕戦(日生)に「5番・三塁」で出場。試合は5-7で敗れたが、南海の抑え・金城基泰投手から1号アーチを放った。4月の本塁打はこの1本だけだったが、5月は4本、6月は5本。その後、ペースは落ちたものの、シーズン終盤の9月は8本と再びアーチを量産した。その勢いは10月も止まらなかった。10月3日のロッテ戦(藤井寺)では仁科時成投手から27号、28号、29号と1試合3発だ。

「最初はライトに打ったのかな。(3本はレフト、センター、ライトに)なんか分けて打ったんじゃなかったな」。10月5日の南海とのダブルヘッダー第2試合(日生)では南海先発の村上之宏投手から一発。自身初の30号に到達した。近鉄は後期最終戦の10月11日の西武戦(藤井寺)に勝って、後期Vを決定。前期優勝のロッテとのプレーオフは3勝0敗で2年連続リーグ制覇。羽田氏も第1戦で、またも仁科から2ランを放つなど活躍した。

 その年の夏にちょっと変わった練習をさせられたという。「藤井寺でね。(近鉄監督の)西本(幸雄)さんに、けん玉を渡されて『これでリズムを取れ』って言われたんです。リズムがないから、そのタイミングで打てと……。で、(打撃)ケージの後ろのところでけん玉をやりました。『膝をうまく使え、手だけじゃ絶対収まらないぞ』って。僕は膝が硬かったんで、うまくタイミングがとれていないということでね」。ナインの打撃練習中に、ひとりだけ黙々とけん玉をやり続けたそうだ。

 当然、注目を集めた。「もう恥ずかしかったですよ。ホテルとかでやるように言ってくれたらよかったですけど、人前でしたからね。記者の人たちからも聞かれて『膝を使いなさいということです』って、そんな感じのことを話したと思う。でも(けん玉練習を)やったのはその日だけですよ。そんなにしませんよ。みっともないですし……。今じゃ笑い話みたいに言われるかもわからないけど、本人にとってはねぇ……」。

広島との日本Sに2年連続敗戦…「みんな山根を打てなかった」

 二度と、あの場でけん玉をやりたくないと思えば、“やれ”と言われないように打つしかない。羽田氏は「(9月以降、さらに)打てたのは、それもあったかもわからんですね。まぁ、けん玉の効果かもしれないし(膝を使うなどの)意識の問題ですからね」とも話す。その上で「それまでも西本さんには人前でどつかれたり、恥ずかしい思いをしながら、やってきましたからね」と、そのたびに奮い立ち、技術アップにつなげた過去を思い起こすように口にした。

 そう考えれば、羽田氏に対して、敢えて目立つ場所でけん玉練習をさせたのも西本流の刺激策だったのかもしれない。もちろん、やられる方は精神的にも、それを乗り越えていかなければならないのだから大変だ。かつての恩師との日々を懐かしみながら「よう、やけ酒も飲みましたわ」と苦笑した。

 打率.272、30本塁打、80打点、三塁守備でもダイヤモンドグラブ賞を初受賞した1980年だったが、2年連続で同じ顔合わせとなった広島との日本シリーズは前年に続き、3勝4敗で涙をのんだ。羽田氏は第1戦(10月25日、広島)で4-4の延長12回、広島・江夏豊投手から勝ち越し2ランを放ち、第2戦(10月26日、広島)も2安打と好スタートで、近鉄も連勝。だが、結局、第7戦までもつれこみ、ひっくり返された。羽田氏も第3戦以降は無安打だった。

 広島相手に2年続けて、惜しくも逃した日本シリーズ制覇。近鉄球団はその後も日本一を味わうことがなかっただけに、羽田氏も当時の主力打者として、なおさら悔しさは募り、心残りでもあるのだろう。「あの時はみんな、(広島の右腕)山根(和夫投手)を打てなかったんじゃないかな。シュートとスライダーが……。ものすごくコントロールもよくてねぇ……」と唇を噛んだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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