毎日300球を2週間…阪神ドラ1を襲った“激痛” 直後に疲労骨折も「ええところで休んだ」

阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】
阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】

元阪神左腕の湯舟敏郎氏は大阪の古豪・興国高に進学した

 元阪神でNPB通算60勝左腕の湯舟敏郎氏(野球評論家)は1982年、大阪・興国高に進学した。1968年夏の甲子園優勝の実績ある野球部に入部したが「3日目に怪我をしました」と試練のスタートになった。左ふくらはぎを痛めて離脱し、しばらく部室掃除係だったそうだ。復帰後は外野手としてプレーしていたが、夏の大阪大会初戦の相手が左腕ということで打撃投手役を務めることになり「毎日300球は投げました」。途中からは左肩痛との闘いの日々になったという。

 野球伝統校でもある興国高だが、湯舟氏はそんなことを全く知らずに受験し、合格。それを認識した後は野球部入部を迷ったという。貝塚シニアでは控え野手で試合にもあまり出られなかっただけに「野球を続けてもなぁってところが、自分の中にもあった」という。「中学の時のチーム(貝塚シニア)も強かったし、高校でもまた同じような感じになるのかなぁって考えていたんじゃないかと思います」。

 最終的には「いとこの兄ちゃんにも勧められて、やってみようかなぁ」と同級生たちよりも少々遅れて入部を決断した。「将来、就職することを考えたら、運動部に入っていた方がいいのかな、それなら中学の時に野球をしていたので野球部で、って。まぁ先々のことを考えて決めたって感じでもありましたね」。そんな形で幕が開いた興国野球部時代だったが、いきなり躓いたという。「入部して3日目に怪我してしまったんです」と苦笑しながら明かした。

「大きくジャンプするウサギ跳びでね。それまで全然何もしていなかった時期もあったのに、入部したばかりでハッスルしていたんでしょうね。3日目に思いっ切り跳ぼうと思ってジャンプした時に左ふくらはぎ付近がピチッといって……肉離れです。それから1週間か2週間くらいは練習ができなくなって、先輩に言われて部室の掃除をしていました」。ただし、それでめげることはなかったという。

「僕らの代は50人が入部しました。僕の年(1966年生まれ)は丙午なんで、少ない方です。前の年は100人くらい入ったって聞きましたし、もうちょっと前は150人くらいだったと。なので、僕らの時は少なかったのですが、結果的にはマネジャーを入れて9人しか残らなかった」。故障リタイアでスタートの湯舟氏だったが、復帰後は黙々と練習をこなし、周りがどんどんやめていくなかで耐え抜いた。

大会前の打撃投手で多投「もう腕が上がらなかったです」

 実力でもアピールした。「1年の6月頃だったか、上の人たちが試合に行って、1年生だけ残ってバッティング練習をした時があったんですけど、たまたま、僕がいい当たりを打ったんですよ。で、何人かの1年生とピックアップされて2年生、3年生の中に交じって打たせてもらったりするようにもなったんです」。当時の湯舟氏は外野手。「僕が左だったってこともあると思う。昔は左打ちなんてそんなにたくさんいませんでしたからね」。

 体の成長もあった。「中3の時は身長が162(センチ)くらいだったけど、高1の時は170弱。もしかしたら、ちょっと体が大きくなった分、(強い)スイングができていたのかもしれない」。そんな中、1年夏の大阪大会前にハードな日々が待っていた。初戦の相手が左の好投手を擁する高津高に決まり、対策としての打撃投手を左投げの湯舟氏が務めることになったのだが、きつかったのはその投球数だ。

「試合前日まで2週間くらいありましたかね、毎日“先発完投”で300球くらいバッティングピッチャーで投げました」。投げすぎで、途中からは左肩痛に襲われた。「僕はプロ野球でも肩が痛くなった時があったんですが、(高1夏の)あの時ほどの痛みじゃなかったと思う。キャッチボールの時から痛かったですからね。でもバッティングピッチャーは絶対しないといけないことだったので……」。そんな状況にかかわらず投げ続けたそうだ。

「投げ出すと痛みを消す何かが出るんでしょうね。その時だけ投げられたんですよ。で、投げ終わったら、痛くて、もう腕が上がらなかったです」。それを試合前日まで繰り返した。まさに“苦行”でもあったようだが、その甲斐もなく、1982年夏の大阪大会で興国は高津に3-7と初戦で散った。湯舟氏の打撃投手生活はそれで終わったが、左肩痛を抱えたままで外野手として新チームでの練習に挑んだという

「そしたら8月に今度は左足が痛くなったんです。入部して3日目に肉離れししましたが、実はその時も完全に治らずに復帰していたんですよ。そんなんで無理したからでしょうね。病院に行ったら疲労骨折と言われて、ひと月くらい休まなければいけなくなりました」。またまた故障の試練となったが、湯舟氏は「今から思うとあの時、足が折れてなかったら、たぶん、肩がつぶれていた。ええところで休んだと思いますよ」とも話す。

 もしも左肩が取り返しのつかない状況になっていれば、左腕投手としてプロで活躍することもなかったかもしれない。そう考えれば紙一重だったということか。そこで休みをとった湯舟氏はその間に左足だけなく左肩も癒え、1年秋の大会には間に合い、左翼のポジションをつかむ。もちろん、その裏には努力、精進があったのは言うまでもないが、綱渡りのように、その野球人生はつながっていった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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