甲子園のヤジで“顔面改造”も…起こった異変「おかしくなった」 苦しんだ人気球団の宿命

阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】
阪神などで活躍した湯舟敏郎氏【写真:山口真司】

元阪神・湯舟敏郎氏を悩ませたファンからの指摘

 元阪神エース左腕の湯舟敏郎氏(野球評論家)は、プロ4年目の1994年と5年目の1995年に2年連続で開幕投手を務めた。だが、いずれの年も満足な成績は残せなかった。人気球団の宿命で、勝てない時には厳しい声をまともに受けるが、その中には思わぬ指摘もあった。それは「いつも笑っているように見える」というもの。最初は気にしていなかったそうだが、あまりにも言われるものだから”顔面改造“に取り組んだこともあったという。

 湯舟氏はプロ3年目の1993年にチーム勝ち頭の12勝を挙げ、虎のエース格に成長した。その年の終盤に左肩を痛めて離脱したが、翌1994年は初の開幕投手(4月9日のヤクルト戦、神宮)に指名された。「肩はオフの間に痛みがなくなったんですが、すごくイニングを投げられるってところまでは……。まずは5回を目指して投げていこうという話をされたと思います」。結果は4回1/3、3失点で敗戦投手だった。

 打線が初回に1点を先制したが、2回に池山隆寛内野手に逆転弾。3回には広沢克己内野手の適時打で1点を追加された。その後、3登板目の4月23日の巨人戦(東京ドーム)で7回2/3、無失点と好投し、シーズン初勝利を挙げたが、前年のように連勝街道とはいかなかった。「調子が上がらなかったとか、打たれたとかもあって……」。その年は規定投球回に到達し防御率は3.05だったが、23登板で5勝7敗に終わった。

 1995年も2年連続で開幕投手。4月7日の中日戦(ナゴヤ球場)で湯舟氏は7回1死までパーフェクト投球を見せた。だが、2-0の8回に中日・中村武志捕手に同点2ランを打たれると、そのまま9回まで投げて降板。試合は延長14回に阪神3番手の郭李建夫投手が打たれて、2-3でサヨナラ負けだった。「自分としてのスタートはよかった。でも勝てなかったんですよねぇ」と振り返るように、この年はここから苦しんだ。

 勝ち星に恵まれない日々が続き、シーズン初勝利は6月15日の巨人戦(甲子園)までずれこんだ。とにかく流れが悪かった。打線の援護に恵まれないケースが目立ったが「(負けがつくというのは)結局、いいところで打たれているわけなのでね。どっちかというと滅多打ちを食らうよりも、僅差で負けた時の方が悔しさって残りますからね」。黒星が増えていくとともに、打ち込まれる試合も増えていく悪循環にも陥った。

“顔面改造”に取り組むも「肩までおかしくなった」

 8月17日のヤクルト戦(神宮)では先発して3回7失点でシーズン10敗目(3勝)を喫した。プロ1年目(1991年)にも11敗を経験していた湯舟氏だが「やっぱり10敗したら、きつかったですよ。負けが先行すると焦りというのもありますしね」と語る。スタンドからの野次も厳しいものが増える。「まぁ、お客さんも、僕に対して勝っているイメージがなかったでしょうからね」。

 その年はリーグ最多敗の5勝13敗1セーブ、防御率3.96。そんな時に気にしていたのが「いつも笑っているように見える」との指摘だった。「まぁ、もともと僕は“笑い顔”なんですけどね。(プロでは)結構、早い時期から言われていましたが、(プロ2、3年目の11勝、12勝など)勝っているときはまだ……。でも負けだしたら、よりきつく言われましたからね」。打たれたら、負けたら、当然悔しい思いをしているのに「笑っているように見える」と“批判”されるのだから、たまらない。

「それで一時期、マウンドで投げる時以外は眉間にしわを寄せたりしていたんですよ。“笑っている”と言われないようにね。でも、それを続けていたら、首が凝るようになって、肩までおかしくなってきて……。これはアカンわって、そうするのをやめたんですけどね」。湯舟氏は笑いながら“顔面改造”に大真面目に取り組んだことを明かしたが、当時はとても笑えるような状況ではなかったことだろう。

 その後は「もうしょうがない。首が凝った方が、球がいかなくなる」と“顔”を気にせず投げるようにしたそうだが、その上で、こう話した。「結局、あの時の僕はバッターと戦っているんじゃなくて“笑うな”と言われていたことでファンの人と戦っていたわけですよ。文句を言われないように、ってね。そもそも、それが間違い。もっとバッターに集中せいよ、っていうことですよねぇ……」。人気球団・阪神でエースと呼ばれた湯舟氏だが、その裏ではいろいろあったわけだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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