中日入団直後に痛感「素質がない」 同学年の“先輩”に衝撃…愕然のブルペン「帰ろうと思った」

元中日左腕の米村氏、プロ1年目は屈辱の結果に終わった
1984年の中日ドラフト5位左腕の米村明氏はプロ1年目から実力不足を痛感したという。社会人野球・河合楽器から25歳で入団したが、宮崎・串間キャンプでは、ブルペンで剛腕2投手に挟まれ、レベルの差を思い知らされることからスタート。開幕後は阪神・ランディ・バース内野手との対戦で首脳陣から屈辱の“評価”も受けた。プロ初被弾は相手投手に許し、6月下旬に2軍落ちしてシーズン終了。「見切られました」と苦笑した。
中日入りした米村氏は「19番」を背負った。「11と16と19が空いていたのかな。僕は大学(中大)時代に16番だったから、16をお願いしますと言ったんですが、担当スカウトの水谷(啓昭)さんに19を勧められたんです。あの頃の中日の16は出世した人が少なかった、ということでね」。19はパームボールを武器に1979年に新人王を獲得した藤沢公也氏がつけていた番号だった。
米村氏もパームボールの使い手として有名だが、中日入団時はまだ習得していない。「のちにパームボールを覚えたとき、よくブルペンで『中日の19番は、みんな投げるんか』なんて言われたこともありましたけどね」と笑いながら話したが「真っ直ぐ、カーブ、スライダーにシュートも投げていた」というプロ1年目は笑えない状況の連続だったという。2月の串間キャンプのブルペンでは愕然となったそうだ。
「鈴木孝政さんと小松(辰雄)に挟まれて投げたんですけど、こんなに凄い球は今まで見たことがなかったです。2人ともキャッチャーのミットに吸い込まれるようにバーン!って。3、4球見たら、ボールを置いて帰ろうかって思いました。自分の能力のなさに気付かされました。僕には素質がないんだって、あの時に、痛切に感じましたね。挫折です。でも、たぶん、わざとあそこで投げさせられたと思いますよ」。それ以降、常に危機感を持って取り組んだ。
「本当に差を感じました。(1977年ドラフト2位の)小松なんか同い年ですよ。トレーニングコーチに『はい、小松ダッシュ10本、米村は20本』とか言われて“おい、同級生やで”って言いたいけど、それくらい僕はやらないとアカンのやなっていう自覚もありました。僕ね、現役時代、小松と1回も話したことがなかったんですよ。このクソガキって思いながらやっていましたから(笑)。引退してからは大の仲良しになりましたけどね」
相手投手に許したプロ初被弾「バーンって打たれました」
プロ初登板は5月26日の阪神戦(甲子園)。リリーフで登板し、バースと掛布雅之内野手の2人に投げて無失点。「両方とも3ボール1ストライクになったのは覚えています。バースにはセンター前ヒットを打たれて、掛布さんはサードファウルフライだったかな」。2登板目も阪神戦(6月1日、ナゴヤ球場)だったが、この時はバースからプロ初三振を奪って1/3を無失点。だが、その後は……。
3登板目も4登板目も阪神戦で、今度はバースを抑えられなかった。「バースにフェン直を打たれたけど、足が遅いのでシングルヒットになって、ピッチングコーチに『ホームランじゃなかったからいい。よう投げた』って“打たれて”褒められました。屈辱でした。泣いて帰りたかったです」。1985年は、強力打線を看板とする阪神が日本一となったシーズンで、バースは3冠王に輝いた。そんな時に対戦したわけだが、米村氏にとって悔しすぎる結果だった。
さらに苦い思い出なのが、5登板目の6月5日のヤクルト戦(神宮)。プロ初被弾を宮本賢治投手に浴びてしまった。「3ボールになってシュって真ん中に投げたらバーンって打たれました」。6月28日の広島戦(広島)後に2軍落ち。「こいつはアカンなって見切られたと思います」と、そのまま1軍に呼ばれることなくシーズンを終えた。1年目成績は10登板、0勝0敗、防御率12.60。まさに試練の年となった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)