中日首脳とギクシャク…8月に決めた引退 新監督から打診も固辞、ぽっきり折れた心

元中日・米村明氏【写真:山口真司】
元中日・米村明氏【写真:山口真司】

元中日・米村氏はプロ7年目に現役引退を決断

 中日で第1次星野仙一監督体制が幕を閉じた1991年、左腕・米村明氏も現役を引退した。プロ7年目での決断だった。左肘の状態が思わしくなかったこともあるが、ラストイヤーは2軍で抑えなどを務めながら、1軍へ一度も推薦されず、気持ちも切れていた。「あの年は沖縄キャンプの時から……」。オフに新監督に就任した高木守道氏から、まさかの現役復帰を打診されたが「もうしんどいです」と断ったという。

 米村氏はプロ4年目の1988年に先発、リリーフにフル回転して30登板(12先発)で7勝4敗の好成績。中日のリーグ優勝に貢献したが、それは左肘痛と闘いながらの結果でもあった。その後はリリーフがメインとなり、5年目(1989年)は25登板で2勝2敗。6年目(1990年)はシーズン初登板が5月3日の巨人戦(東京ドーム)までずれ込んだ。左肘の状態が万全ではなかった。

 その年、唯一先発した7月21日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)に2回3失点で降板後、2軍落ち。それ以降は1軍に戻ることはなく、14登板で0勝0敗だった。「2軍の時に肘が痛いんで、ちょっと治療に専念したい、みたいなことも言ったと思う。でも、それは許されませんでした。その頃から(2軍首脳陣と)何か噛み合わない感じにはなっていましたね」と米村氏は唇を噛む。その後は痛み止めの注射などで無理をしていただけで、左肘の状態はずっと平行線だったそうだ。

 そんな形でプロ7年目(1991年)を迎えた。オーストラリア・ゴールドコーストでの1軍キャンプメンバーに選ばれたが、その後は2軍での調整となり、シーズンに入ってからも1軍から声がかかることはなかった。左肘痛でどうすることもできなかったわけではない。痛みとの闘いは続いたが、1軍返り咲きを目指していた。「2軍では抑えをやっていました。投げてはいたんですけどね」と言って、こう続けた。

「オーストラリアキャンプが終わってからの沖縄キャンプで、一、三塁でゲッツーにするのか、ホームに投げるのか、フォースアウトにするのかっていうプレーがあったんです。ファーストゴロが飛んで、キャッチャーが『セカンド』って言ったので(投手の)僕はカバーでファーストに行きました。全力でね。ところがファーストがホームに投げたので、僕は交錯して……。そしたら『(2軍首脳に)何やっているんだ!』と言われて……」

 米村氏は「『ファーストは本人の判断でホームに投げました。僕はセカンドゲッツーでカバーに入らなきゃいけない。難しい判断ですね』と言ったら『何が難しいんだ』と聞き入れてもらえなかった。『わかるまで練習しろ』と言われて、それから1時間、カバーの練習をすることになった。一人で、ですよ」と話す。この件に関しては、その後も叱責など厳しい“指導”があったそうだ。

現役復帰の打診も決断は変わらず「辞めてよかった」

 そんなことがあった上に、開幕以降、2軍で結果を残しても1軍に推薦されず。ただでさえコンディション問題を抱えていた米村氏は前向きな気持ちになれず、ついには現役引退を決断した。「8月くらいに(球団側に)『辞めます』と言いました。『10月まで期間があるので迷惑をかけないようにファームの練習には参加します』とも伝えました」。報告を受けた星野監督は寝耳に水だったようで2軍首脳を叱ったとのことだが、後戻りするつもりはなかった。

 この年の中日は8月終了時で、2位の広島に4.5ゲーム差をつけて首位だったが、9月に逆転されてV逸し、星野監督も退任。同時期に米村氏の現役引退も正式に決まった。10月15日のシーズン最終の広島戦(ナゴヤ球場、ダブルヘッダー第2試合)に3番手で登板し、打者1人を抑えて無失点。それが“引退マウンド”だった。試合後は、同じく、この試合で引退する大石友好捕手とともに、ナインから胴上げされ、選手生活の幕を閉じた。

 ただ、この後、高木守道新監督からまさかの打診があったという。「高木さんに『米村! ちょっと来い』と呼ばれて行ったら『もう1回、現役をやらんか』って言われたんです。『いや、もうしんどいです。もう結構です』と断りましたけどね。人間ってやっぱり気持ちだと思う。それが整っていなかったら前には進めない。技術もちゃらんぽらんになるのでファームでは通用しても多分、1軍では通用していない。僕はあの時、辞めてよかったと思っています」。

 通算成績は130登板、14勝9敗、防御率3.77。「よくやったなって満足していますよ。みんな“こんなんで満足するの”って言うかもしれないけど、僕の中では毎日、毎年を精一杯やったから。自分の素質で言ったら100%できたと思います」と米村氏は言葉に力を込めた。引退後も中日に残り、2001年まで打撃投手や裏方チーフなどを務め、そのオフからスカウトに転身したが「左肘はいまだに水が溜まりますよ。だから今はキャッチボールもしたくないです」とも明かす。

 それはPL学園、中大、河合楽器、中日と続いた激闘の証しでもあるだろう。プロで習得したパームボールを駆使して、史上初の毎回被安打での完封劇など、芸術的な“超粘りの投球術”は誰でも真似できるものではない。そして、その粘り腰はスカウトとしても……。米村氏の新たな”野球ドラマ”が、中日を退団する2024年まで続くことになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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