2000安打を目前に引退した男たち… 谷、井端ら名選手たちの引き際

現在は侍ジャパンのコーチを務める井端弘和氏(左)【写真:Getty Images】
現在は侍ジャパンのコーチを務める井端弘和氏(左)【写真:Getty Images】

1978年に「日本プロ野球名球会」が誕生、2000安打、200勝が入会基準に

 2000本安打が打者の大きな勲章になったのは、1978年7月に「日本プロ野球名球会」が誕生し、その入会基準に200勝とともに2000本安打が制定されてからだ。

「名球会」が創設された時点で、入会基準を満たしていた打者は以下の10人だった。達成日順。

山内一弘(阪神) 1967年10年月14日
榎本喜八(東京) 1968年7年月21日
野村克也(南海) 1970年10年月18日
長嶋茂雄(巨人) 1971年5年月25日
広瀬叔功(南海) 1972年7年月1日
張本勲(東映) 1972年8年月19日
王貞治(巨人) 1974年8年月4日
江藤慎一(太平洋) 1975年9年月6日
土井正博(クラウン) 1977年7年月5日
高木守道(中日) 1978年4年月5日

 このうち榎本喜八は入会せず。野村克也以降の選手のうち長嶋茂雄を除く選手がまだ現役。また、1956年5年月31日に日本最初の2000本安打を達成した川上哲治(巨人)は、大正生まれだったために「昭和生まれ」という基準から外れ、名球会には入っていない。

 この時点で1900本代の安打で引退していた選手が3人いる。()は実働。

飯田徳治 1978安打(1947-1963)
毒島章一 1977安打(1954-1971)
小玉明利 1963安打(1954-1969)

 飯田徳治は南海の主力打者、野村克也の台頭と入れ違いで国鉄に移籍し、投の金田正一とともにスワローズの看板となったが、1963年に引退。2000本まであと22本だった、少し頑張っていれば、川上哲治に次ぐ2人目の2000本安打は飯田のはずだった(大正生まれのため名球会には入らない)。「仏の徳さん」と言われる無欲恬淡とした性格でもあり、大台にはこだわらなかった。打点王2回、盗塁王1回、MVPも受賞し、殿堂入りしている。

 毒島は東映の名リードオフマン。張本勲、大杉勝男、白仁天らと強力打線を組んだ。最多三塁打3回、通算三塁打記録を長く保持していた。毒島は2000本安打に大いに意欲を持っていたが、1971年にはコーチ兼任となった。出場は偵察メンバーとしてだけ。記者が東映の田宮謙治郎監督に「あと23本ですが」と聞くと「もう2000本打ったようなもんじゃないか」と言ったという。

 今年5月19日に逝去した小玉は近鉄の最多安打記録(1877安打)を持つ好打者だが、1967年にプレイングマネージャーになったものの最下位になり、翌年阪神に移籍。阪神では、正三塁手のポジションを開けて小玉を迎えたが、打撃不振に陥ったために2000本に届かず。生え抜きの近鉄であれば、チャンスを与えられたかもしれないが、阪神ではそうはいかず2年で引退した。

阪急、オリックス、ダイエーでプレーした松永浩美は1904安打で引退

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