同じ病気の人に届けたい 巨人の育成・柴田章吾が貫く生き様
過去の経験がプロとなった柴田の大きな支えに
「病気に負けない」――。同じ病を抱える人が全国にいる中で、自分が道を切り開こうと心に決めた。練習が激しくなれば、炎症が増し、入院を繰り返すこともあった。だが、そんな努力を身近にいる人が、しっかりと見てくれていた。同校の倉野光生監督はその精神力、人間性を高く評価し、大きな戦力として最後の夏もメンバーに入れ、愛知県大会の決勝戦でも登板させた。結果、左腕は優勝投手になった。
やればできる。手ごたえを得た若者の視線は、もう一段階上がった。「こういう体でも、やれるということを証明したい」。自分の生き様を、プロ野球選手になることで伝えたかった。
明治大学に進学後は、病院に通いながら、食事制限をしながら、プレーを続けた。後に広島に入団する野村祐輔がエースだったこともあり、主戦ではないものの、4年間、明大の厳しい練習に耐え、140キロ中盤の直球、スライダーのコンビネーションを武器に、頭角を現した。
迎えた2011年のドラフト会議。社会人野球の誘いもあったが、一方で病気を懸念して受け入れようとしない企業もあった。柴田はここで覚悟を決めた。プロへ行くことしか選択肢に入れず、プロに行けなかったら、野球から離れることを考えた。
そして、指名はあった。支配下選手ではない育成選手契約を巨人と結んだ。球団側は、柴田のそれまで苦難に打ち勝ってきた姿勢や将来性を買ったのだろう。育成から1軍でプレーするようになるのは非常に狭き門だが、若者にとっては、再びその生き様を証明できるチャンスに違いなかった。高校、大学の関係者、そして巨人軍に感謝の気持ちでいっぱいだった。
プロ入りして1年はなかなか、その名が世に出ることはなかった。柴田はプロの選手としては力不足だった。2アウトからリリーフ登板したある日の試合で、デッドボール3つ、牽制アウト1つでチェンジ……。一人も打者をアウトにしないで交代したときがあった。スタンドから痛烈なヤジが飛んだ。
「お前はそれでもプロ野球選手か!!」
その言葉は、柴田の頭から離れなかった。ストライクが入らない。手先の感覚が狂っていくのを感じ取った。病気とは関係ない。野球選手としての試練だった。心ない罵声も仕方がないと割り切った。自分は苦しみを乗り越えてきた。その観客には次の機会に成長した姿を見せてやればいいんだ、我慢すればいい、と心に言い聞かせた。何があっても乗り越えるという姿勢だけはぶれなかった。過去の経験は、プロになった柴田の大きな支えになっていた。