24日発表の第86回センバツ高校野球 地元の熱い思いを背負う徳島・池田高校は27年ぶりの“春”になるか

蔦監督退任後、池田は甲子園の土を踏めなかった

 蔦監督は1992年に体調面を考慮し、勇退。2001年に亡くなった。そして1993年以降、池田が甲子園の土を踏むことはなかった。池田の関係者は「影響力のあった蔦監督の指導が受けられないと分かると、当時の子供たちは他の強豪校に行くようになってしまった」と語る。徳島商、鳴門、鳴門工業、生光学園など、県内の有力選手たちは各学校に分散。1986年のセンバツ優勝以降、徳島県勢の春夏の甲子園での優勝は出ていない。

 池田高校が快進撃した当時。池田の街の人々は、故郷の高校を誇りに思い、大きく胸を張っていた。「町の自慢だった」と地元住民は語る。しかし、低迷期とともに学校への入学者数も減った。蔦監督は勇退した後も、自宅裏に「蔦寮」を構えていたが、体調不良と寮母の夫人が高齢になったため、閉鎖になった。野球部に寮がなくなり、生徒たちが自宅から通うようになると、練習の時間も制限されるようになり、甲子園はどんどん遠のいていった。

 しかし、昨年の春から寮が復活。「もう1度、池田のユニホームを甲子園で見たい」という地元住民の熱が高まり、有志が立ち上がって、なんと寮を提供したのだ。飲食店の人々が食事を作って、選手たちに用意してくれた。すべては、「地元の誇り」のため。選手たちはその厚意に練習量で応えた。朝練に始まり、夜も遅くまで練習。終電を気にする必要もなくなった。そしてつかんだ四国2位の成績だった。池田は地域の支えで再び、強くなった。

 甲子園に出るだけで満足するわけにはいかない。今でも池田には高校野球フリークが観光に訪れるほど、人気の学校だ。一度は止まった輝かしい栄光を、再び取り戻したい。そして、天国の蔦監督と一緒に、再び校歌を大声で歌いたい。池田の人々の胸にはそんな思いが詰まっている。

【了】

フルカウント編集部●文 text by Full-Count

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