ブラジルで野球人気は広がるか…日系少年野球チームで育ったMLB選手の物語
日本流の野球が染みついているリエンゾが受けたカルチャーショック
いろいろなポジションを経験しながらも、本人が最も愛し、最も頭角を現したポジションがピッチャーだった。16歳になると、ブラジル野球連盟とヤクルト商工が主宰するアカデミーに入門。全寮制のアカデミーで高校に通いながら文武両道に励んだ。
アカデミーは、アチバイア市から車で2時間半ほど離れたイビウーナ市に2000年に開校した。野球場が3面あるほかトレーニング施設や屋内練習場などがあり、「アメリカのキャンプ施設みたいな感じかな。本球場に客席がないのが大きな違い」と話す。コーチは日系人とキューバ人。野球の基本やピッチングの技術はもちろんだが、何よりも野球の楽しさを教えてもらった。
新しい人材発掘に訪れたホワイトソックスのスカウトに見初められ、契約を交わしたのが2006年、18歳の時だった。翌年にはドミニカ共和国に渡り、ルーキーリーグに参加した。家族はもちろん通訳もいない文字どおりの単身。母国語のポルトガル語とスペイン語は似て非なる言語だ。「最初は、会話の中で分かる単語をつなぎ合わせて、なんとなく言っている意味が分かった、という程度」だったというが、今ではスペイン語も英語も流ちょうに操る。
「“飢え死にしないために言葉を覚えるんだ”って言ってるんだけど、半分ジョークで半分本音。レストランで注文くらいできないと困るからね(笑)。ドミニカではルーキーリーグ、ウィンターリーグに参加する中で、みんなと一緒に行動しながら言葉を覚えたんだ。
アメリカに来て、マイナーリーグでプレーを始めてからは、なるべくアメリカ人の選手と一緒に行動して、そこから英語を学んだんだ。もちろん、一番上手に話せるのはポルトガル語(笑)。残念ながら日本語は簡単なあいさつ程度しかわからないんだ」
言葉は分からなくても、リエンゾには日本流の野球が身についている。2009年にアメリカでルーキーリーグに参加した時、ちょっとした違和感が沸いてきた。
「何から何まで、全部球団スタッフがしてくれるんだ。ブラジルでは、練習が終わったら必ず自分たちでグランド整備をしていた。みんなでトンボを持って、土のグランドを平らにならしていたんだ。だけど、選手は練習や試合が終わったら、片付けはしなくていい。ちょっとしたカルチャーショックだったよ」
試合中にもカルチャーショックは訪れた。