「名前で注目イヤだった」―西武ドラ6本田圭佑、同姓同名の葛藤を越えて

本田が過ごした葛藤の日々、「名前負けしていることが悪いことのような気がして」

 旬の男と同姓同名のエースの登場に、初戦からメディアは注目。スポーツ紙の全国版で取り上げられたこともあった。当時を大学3年の時の本田はこう振り返っている。

「実力による結果での注目ではなかったと今なら分かります。でも、当時はガキだったので、嬉しかったという記憶がありますね」

 夏の大会中は、嬉しさがあった。17歳の高校球児。嬉しくない方がおかしいかもしれない。

 しかし、ここからは葛藤の日々だった。

「名前負けしていることが悪いことのような気がして、名前で注目されるがイヤで仕方なかったですね」

 球速も上げたい、コントロールも良くしたい、変化球の精度も高めたい……。「全部が良くなりたいと思い始め、狂い始めました。フォームも崩しましたし、力んで投げていました」

 自らを純粋に高めようとする向上心だったならば、苦しまなかったかもしれない。しかし、高校生の本田が抱いた向上心は周囲の期待に応えるため。東北学院高・渡辺監督は「高校3年の春、キャッチャーの後ろから『ナイスボール』と声をかけても本田本人は、これじゃないんだよなという感じで首をかしげていました」と明かす。自分を見失っていたのかもしれない。

 納得いかぬまま、本田は3年夏の宮城大会準々決勝敗退で高校野球を終えた。

 進路は国公立大を目指していたが、高いレベルで野球を続けたいという気持ちが出始め、プロを輩出している東北学院大へ。ただ、いくらプロを輩出しているとはいえ、「プロでやりたいという気持ちは強くありませんでした。むしろ、プロなんかどうせ……という感じでした」という。それが、2年から直球がコンスタントに140キロを超えるようになり、3年春のリーグ戦で自己最速となる147キロを出すと、プロを強く意識するようになった。

 球速の数字はあったに越したことはないし、プロを強く意識する要因にもなった。しかし、本田がこだわってきたのは直球の質だ。「伸びのあるストレートを投げたい」と話し、理想の投手に藤川球児の名前を挙げる。

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