「負けた気がしない」の思い残した聖地へ 恩師、友人が語る岸孝之の素顔
「甲子園を目指そうなんて1ミリも思っていなかった」
高校1年の5月頃。岸や佐藤さんら1年生は外野の草むしりをしていた。宮城の高校野球といえば、仙台育英高や東北高が頂点を争い、普通の公立校にとって甲子園は夢のまた夢。佐藤さんは「甲子園を目指そうなんて1ミリも思っていなかった」と笑う。おしゃべりをしながら草むしりをしていると、岸と佐藤さんの頭には退部がよぎった。2人の話は退部の方向で進み、「克明くんがOKだったら、俺も監督さんに言うわ」と岸は言ったという。
まずは佐藤さんが監督の田野さんに退部を申し出た。ところが、何を言ってもその理由は跳ね返された。最終的に佐藤さんは丸め込まれて退部は許されず、その結果を受けて辞められないと悟った岸も思いとどまった。もし、ここで佐藤さんが退部していたら、岸は野球を辞めていたかもしれない。
むしろ、岸は高校で野球部に入るかどうかも迷っていたようだ。高校球児の髪形といえば多くが丸刈り。それが嫌だった。入部を希望する新入生の集合日。田野さんが「これで全員か」と聞くと、「あと1人いますが、今日は来ていません」と返ってきた。その1人が岸だった。当時の名取北高の野球部は、長髪でなければ丸刈りでなくてもOKだったのだが、それが本当かどうか、岸は確かめていたようだ。佐藤さんが話す。
「岸くん、髪形も今とあまり変わっていないかも。岸くんは高校時代の監督が田野監督だったからよかったんですよ。田野監督は坊主にして野球が上手くなるわけじゃない、というような本質を突いている人。当時、僕らは野球部員が持っているセカバンではなく、普通のリュックとかでした。練習時間も長くはなく、無駄な練習はしなかったですね。“バリバリの高校球児”という感じではなかったと思います」
全身泥だらけになって何時間も白球を追う――。そんなドラマや漫画のような、でも、現実にある“ザ・高校野球”ではなかった。だからといって、練習をしていないわけではない。サボったり、手を抜いたりすることはなく、要領のいい練習を重ねていった。
岸は高校時代、2年生からエースになった。1学年上の選手は力があり、ホームランを量産する先輩もいた。それまでの岸はどちらかといえば、楽な方へ逃げるタイプだったというが、「この辺りから戦う気持ちが芽生えたのではないか」と田野さんはいう。そして、県内で「岸孝之」の名前は徐々に知れ渡るようになる。それでも、当時、東北高には怪物左腕・高井雄平(現ヤクルト)がいた。さらに、岸が高校3年春の宮城県大会の上位を仙台、利府、仙台二、仙台西といった公立勢が占め、話題の中心というわけではなかった。
迎えた高校最後の夏。名取北高は1回戦の多賀城高戦で5回コールド勝ちした。岸は5回を無安打無得点に抑えた。この時の岸の投球に一目惚れしたのが、当時、東北学院大野球部で監督をしていた菅井徳雄さんだった。菅井さんの息子が多賀城高の選手だったため、試合を観に来ていたのだ。息子は死球とライトゴロだった。
岸のボールは打たれても詰まることが多かったため、名取北高の外野手が前に守っており、ライトにはじき返した打球は一塁に送球されてアウト。息子はノーヒットノーラン(参考記録)で高校野球引退となったが、菅井さんは名取北高のグラウンドに向かった。次の対戦相手の試合を偵察し、学校に戻ってくるまでの数時間を待ち、菅井さんは田野さんに熱意を伝えた。