報徳学園・永田監督、鬼の名将はなぜ「早すぎる勇退」を決断したのか

94年の就任当初はコーチ不在、環境も戦力もこだわった“お膳立て”

「いい形でバトンを渡したかったからです」

 永田監督が94年に就任した時はコーチは一人もおらず、自分一人でチームを作った。今は3人の部長、コーチが報徳学園OBでチームを任せられるようになった。97、98年と4季連続で甲子園出場した時の捕手、大角健二現部長が永田監督の後を継いで監督に就任する。同校卒業後、立命大を経て、2003年からコーチになり、13年間ともに戦った。生徒たちからの人望もあり、バトンを渡せるまでに成長した。

 グラウンドの環境も就任時とは比べものにならないくらいの施設に整えたのも永田監督だった。生徒たちの進路のレールを敷いたのもそう。野球指導の厳しい顔を持つだけでなく、陰で人脈を駆使し、進学先などを探し、頭を下げに行っていた。進学先でOBたちはしっかりと野球、勉強を行うため、受け入れ先も年々、増えていった。中学野球にも熱心に足を運び、選手のことを考えて、成長させてきた。記念すべき来年の夏の甲子園100回大会に向けても「優勝できる力はありそうだ」と手応えもある。

 環境も戦力もいい。すべて“お膳立て”ができたから、辞める決意をした。

「何もなかったら、次やる人に申し訳ないからね」

 どのような形で野球部に籍を残すかは、まだ決まっていない。選手に時間を注いできたため、「迷惑をかけ続けた」という家族と過ごす時間も増えるだろう。すべては教え子のため――。それが、突然の「勇退劇」の裏に込められた思いだった。

【了】

フルカウント編集部●文 text by Full-Count

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY