どんな助っ人ならNPBで活躍できるのか 敏腕代理人が試行錯誤で学んだ条件

元オリックス助っ人の苦い経験、アメリカでは自己主張が必要も日本では…

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外国人選手と日本球界をつなぎ、大成功を収めてきたピーター(左)とエドワード(右)のグリーンバーグ兄弟【写真:編集部】

 それでは、上手くいかなかった例は…? 弟のエドワード氏は苦笑いを浮かべながら「ロベルト・ペレスですね」と明かした。1999年にオリックスでプレーしたペレスは、開幕スタメンこそ勝ち取ったが、思った成績を残せず。1軍出場はわずか50試合に止まり、翌年に日本を離れた。「違いを受け入れられず、不満を漏らす形でしか解消できなかった。約5年のメジャー歴も邪魔をしてしまったようです」と、こんなエピソードを披露してくれた。

「打撃成績が上がらず、ある日ペレスの打順が9番になったんです。すると『こんなの納得がいかない。自分はメジャーでも9番なんて打ったことはない』と監督に直訴した。アメリカでは自分の能力をアピールすることは、自己プロデュース力として必要なものですが、日本では監督の決断に異議を唱えることはありませんよね。文化の違いに上手く対応できなかったんです。

 結局、この騒動と成績不振が相まって2軍落ちしたペレスは、1軍に上がる機会が無いままシーズンを終えてしまいました」

 同じく苦い経験となったのが、2009年に日本ハムでプレーしたルイス・ヒメネスだという。こういった経験も踏まえた結果が、今季はNPBに6選手、独立リーグに3選手を抱える実績に繋がった。

 日本で思うような成績を残せなかったものの、違ったスタイルの野球を経験し、選手としての引き出しを増やし、再びメジャーでプレーするチャンスを得た例もある。2000年、2001年にオリックスに在籍した左腕カルロス・プリードがその1人だという。2000年は先発、中継ぎ、抑えとあらゆる役割をこなし、7勝4敗4セーブの成績を収めたが、翌年は11試合の登板にとどまり、防御率は8.35だった。

「1994年にツインズでデビューしたカルロスは、台湾や日本球界を経て、再び2003年にツインズでメジャー復帰を果たしました。この時32歳になっていましたが、ツインズのトレーナーは『デビューした23歳の頃より動ける体になっている』と驚いていたくらい(笑)。昔からポッチャリした体型だったのが、日本でトレーニングやコンディショニングの基礎を学んで、引き締まった体になったんですね。デビューから9年後に同じチームで再デビューしたプリードの話は、今でも語り草になっています」

 エドワード氏は、プリードのメジャー復活劇について、そう振り返った。

 日本であれ、アメリカであれ、どの国であれ、選手のキャリアにとってプラスの経験となる場所を見つけ、サポートする。代理人として20年以上のキャリアを積み、ホセ・レイエス(メッツ)らメジャーを代表する選手をクライアントに持つ敏腕代理人になろうとも、グリーンバーグ兄弟の姿勢が変わることはない。

【了】

佐藤直子●文 text by Naoko Sato

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