西武・秋山の本塁打量産は「突然変異」か「長打力定着の兆候」か
秋山が自己最多15本塁打マーク、中距離打者のパワー開眼を考察
6月28日の千葉ロッテ戦で、埼玉西武の秋山翔吾外野手が自己最多のシーズン15本塁打に到達した。
この時点での秋山の本塁打率は17.6で、キャリア通算とほぼ同じだった昨季の61.0と比較すると、本塁打を1本打つために要する打数が3分の1以下と、はるかに少なくなっている。リーグ6位の15本塁打に加えて、同2位の31長打、同3位の長打率.564と、パワーナンバーの充実が目覚ましい。
「そういうタイプのバッターではない」と本人は語っているが、初の30本塁打到達も可能な今季の秋山のように、中距離打者が本塁打を量産するのはしばしば見られるケースだ。打線での役割に左右されることも多いが、大別すると、パワー増加が一過性のものでしかない「突然変異型」と、中軸を任せられるような打者へと化ける「長打力定着型」に分けることができる。
「突然変異型」の代表格として、古屋英夫氏(阪神ファーム野手チーフ兼育成コーチ)や、野村謙二郎氏(広島前監督)の現役時代が挙げられる。主に日本ハムで活躍した古屋氏は、1軍デビューからの7年間で規定打席を5度クリアし、そのうち4シーズンで打率.290以上を残したように堅実な打撃が持ち味の打者だった。その間はいずれも2桁本塁打を記録していたが、シーズン最多は19本塁打とあって、1985年の33本塁打は驚きの上積みだ。ただ、翌年は21本塁打を放ったが、それ以降の6年間は計39本塁打にとどまっている。
走攻守揃った選手として広島のリードオフを長らく務めた野村氏も、デビュー2年目からの5年間は毎年2桁本塁打を記録していたが、2度の最多安打を獲得するなど、元来は長打よりもアベレージの安定感が売りの打者だった。その間のシーズン最多は16本塁打で、1994年は10本塁打と数字を落としたが、その翌年にはリーグ2位の32本塁打を放っている。長打率.560も同2位で3度目の最多安打に輝き、トリプルスリーも達成するなど、キャリアベストイヤーになった。ただし、それ以降は故障に悩まされて長打は減り、シーズン14本塁打が最多となっている。
捕手としては歴代でも指折りの強打者として鳴らした城島健司氏の福岡ダイエー時代と、現在も阪神で主軸を張る福留選手の中日時代には、はっきりと「長打力定着型」としての打撃成績が残っている。
当時から広い福岡ドームで大きなアーチを描いた城島を中距離打者とするにはやや抵抗もあるが、正捕手に定着した1997年からの3年間は15~17本塁打で打率3割超えが2回、故障の影響で84試合の出場にとどまった2000年も打率.310と、そのスタッツはアベレージヒッターのものに近い。そして、2001年からマリナーズへ移籍するまでの5年間は平均30本塁打を打ち、所属チームの枠を越えて日本代表でも4番を務めるなど長打力が開花した。
福留はプロ入り1年目から4年目までの本塁打が10本台だったが、首位打者獲得の翌2003年にはキャリアハイの34本塁打を放っている。以降も強烈な打球を飛ばすことで二塁打を量産しながら、本塁打もコンスタントに記録するスラッガーへと進化した。2006年の第1回「ワールド・ベースボール・クラシック」準決勝で放った代打先制2ランは語り草だ。
打者のパワーを話題にする際には、これまで用いた指標が一般に使われることが多い。だが、これらのスタッツにはそれぞれ欠点がある。本塁打率や本塁打の総数だけでは、同じ長打である二塁打や三塁打の数が含まれない。かと言って、単純に長打の数をカウントするだけでは二塁打、三塁打、本塁打が同価値となり、打数の多い打者が有利となる点で公平性を欠く。
実際、NPBのシーズン記録である88長打を放ったのは2002年の松井稼選手(西武)だが、イコールで「歴代最高のパワーを誇った打者」と定義するには無理がある。長打率は二塁打と三塁打と本塁打の区別があり、打数の違いから生じる不平等もないが、単打でも数字が上乗せされるため、打者のパワーを正確に測り切れる指標とは言い難い。