「あの場所は人を育ててくれる」 辻内崇伸が振り返る甲子園“奇跡の夏”
2回戦は大会最多タイ19Kも「最後の回しか覚えてない」
「あれで完全に吹っ切れましたね。翌日からもう投げ込みまくって、走り込みまくって。(2回戦の)藤代戦の前日にも100球以上投げましたし、もう初戦の後は毎日投げ込んでいました。スピードガンも格好つけずに見るようにしました」
2回戦は初戦とはまるで別人だった。地に足がついた投球で、1失点完投。極めつきは9回。3者三振で締め、当時の大会最多タイ19奪三振を達成した。
「実は最後の回しか覚えてないんです。結構、点差もあった(8-1で勝利)ので、追い込んだらもうバーンといけるので、そうしたらみんな振ってくれて。甲子園って、監督と、活躍した選手1人がお立ち台上るじゃないですか。その日は平田がホームランを打っていて、自分は1点取られているのに、何で呼ばれているのかなと。それで行ったら『(奪三振の)タイ記録ですよ、おめでとうございます』って言われて。そこで気づいたんです。ああ、だから歓声がすごかったんだと思いました」
ここからは破竹の勢いだった。3回戦の清峰戦は9回12奪三振1失点完投。相手は辻内が制球に苦しむことを見越して、バットを振らずにリズムを崩す戦法をとってきた。だが裏を返せば、そうでもしなければ、打ち崩せない存在になっていたという証しだった。
「ホンマ、清峰は嫌でした。バット構えてて、僕が足上げたら、避けよるんですよ。打つ気ないですよ、みたいな。どうしてもボール置きに行くようになって、腕が緩んでストライク入らないんですよ。あれは苦しみましたね。でもだからこそ、0点で抑えてやろうと燃えました。最後は9回にホームラン打たれて(公式戦初完封を)逃すんですけど」
準々決勝の東北戦では、9回13奪三振4失点で完投。一時は逆転されたが、藤代戦に続く全員奪三振をマークした。3年になって覚えたフォークを効果的に使った。
「この試合、メッチャ調子良かったんです。でも昔からコントロールいいと打たれるんですけどね。僕はそれまで真っすぐとカーブだったんです。3年の春に遊びでフォークを投げ始めたんです。挟めばいいやみたいな感じだったんですけど、夏の頃にはだいぶ投球の幅が広がってましたね。追い込んだら真っすぐとフォーク。三振が取りやすかったですね」
駒大苫小牧との準決勝に進出したナインは、ハッキリと頂点を意識していた。当時の大阪桐蔭は、西谷浩一監督はあえて指示を出さず、試合前日に選手たちでデータを見ながら話し合い、翌日の投球方針を決めていた。毎試合150球前後投げていた辻内は、スコアラーと話し合いながら、序盤は抑えて、尻上がりに調子を上げていく戦法を選択した。最初から飛ばしたら9回まで持たないとの判断だった。