歴史に残る日米野球人の1945年8月15日ー兵士、子ども、そして戦死の悲劇

ヤンキースの大スター選手だったジョー・ディマジオ【写真:Getty Images】
ヤンキースの大スター選手だったジョー・ディマジオ【写真:Getty Images】

あの野球選手は太平洋戦争の終戦記念日をどう迎えたか

 8月15日は太平洋戦争の終戦記念日。72年前のこの日、日本はアメリカなど連合国軍に無条件降伏をし、終戦を迎えた。この戦争により、日米の野球界は大きな影響を受けた。球史に残る大選手は、1945年8月15日をどのように迎えたのか、紹介しよう。

○戦争を生き抜いた野球人

 のちに巨人、東映、中日で采配を振るった大監督・水原茂は、36歳で終戦を迎えた。1942年に応召(召集令状で兵役に就くこと)し、中国大陸で終戦を迎える。ソ連軍に抑留されシベリアで強制労働に従事。帰国したのは、約4年後の1949年7月だった。

「鶴岡親分」と呼ばれた史上最多勝監督・鶴岡一人は29歳。1939年に南海に入団したが、翌40年に召集され陸軍士官として国内を転戦した。終戦時は鹿児島県知覧の特攻隊基地を防衛する陸軍知覧航空隊機関砲中隊長として終戦を迎えた。1944年に結婚し、妻の実家の姓を継いだため、当時は山本一人と名乗っていた。

 監督として巨人V9時代を築いた川上哲治は25歳だった。熊本工業時代に甲子園で大活躍したのち巨人に入団。戦前を代表する最強打者の1人となっていたが1944年に召集され、立川陸軍航空整備学校の教官として終戦を迎える。川上も鶴岡同様、海外を転戦することはなかった。戦後は「赤バットの川上」として少年たちのアイドルになる。

「赤バットの川上」と並ぶ戦後のヒーロー「青バットの大下」こと大下弘は、若干22歳、明治大学の学生だった。学徒出陣で陸軍航空士官学校を卒業し、特攻隊になるはずだったが終戦。1945年11月に戦後初めての東西対抗試合で本塁打を打ち、一躍注目される。

○終戦時は子どもだった野球人

 400勝投手の金田正一は12歳。名古屋市立大曾根中学に在学中で、この頃に野球を始めた。

 京都府北部に育った野村克也は10歳の小学生だったが、父はすでに亡く、母も病弱だったために、兄とともに新聞配達をして、家計を助けていた。

 長嶋茂雄は9歳、小学生、千葉県佐倉町役場に勤める父と農業に従事する母の元に育ち、終戦前後に兄の手ほどきで野球を始める。

 王貞治は5歳、東京の本所に男女の双子として生まれるが、姉は病死。王自身も虚弱な子供だったが、この頃には丈夫になっている。

 張本勲も5歳だった。広島県広島市に育つが、この年8月6日の原爆で被爆。家は倒壊し、姉は死亡している。

終戦時のメジャーリーガーたちは…

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