ハム清宮は新たな伝統を作れるか かつてエースも背負った「21」の系譜
人気を博した10代目の「21」西崎、12代目・武田久は守護神として活躍
日本ハムの最初の「21」は、まだ1リーグ時代のセネタースに、明治大学から入団した清水喜一郎だ。164センチと小柄な内野手だった。
2代目は1948年、急映フライヤーズ時代に入団した関口義雄、新人時代に1年だけ「21」をつけた。2年目に名前を浜田義雄と改名、背番号も「25」に改め、二塁手として長く活躍した。3代目は捕手の上林繁次郎。中日から移籍した捕手。のちに政治家になったことで知られる。
4代目は投手の山本光一。1952年に1年だけプロで投げた。5代目は捕手の大畑庄作。浜松工業から東急フライヤーズに入団し、2年目の1953年から「21」をつけた。6代目は東映フライヤーズのエース土橋正幸。浅草フランス座の軟式野球からプロ入りした変わり種だが、ずば抜けた制球力で20勝以上5回、昭和中期を代表する投手となった。のち日拓、ヤクルト、日本ハムの監督も務めたレジェンドだ。この土橋以降、「21」は主戦級の投手の背番号となる。
7代目は、サイドスローのエース高橋直樹。この投手も制球力の良さで知られた。8代目は、トレードで広島からやってきた高橋里志。広島時代に20勝したこともある実力派だ。9代目はアンダースローの三沢淳。彼も中日では105勝した一線級投手。キャリアの最後の2年を日本ハムでプレーした。
10代目は西崎幸弘。1980年代、近鉄の阿波野秀幸と人気を二分した二枚目エース。西崎はのち西武に移籍するが西武でも「21」をつけた。11代目は清水章夫。ここまで投手はすべて右腕だったが、清水は左腕。1997年、近畿大からドラフト1位で入団。将来を嘱望されたが、肘の故障もあってプロ通算17勝で終わった。
12代目は今シーズンまで「21」をつけていた武田久。入団時は「54」だったが、2年目から「21」をつけ、最多ホールド1回、最多セーブ3回。170センチと小柄だが、守護神として長く活躍した。武田久は今オフに退団。清宮幸太郎が13代目の「21」になった。
チームはMLBで3000本を打った大打者、ロベルト・クレメンテも意識して「21」を与えたという。エース、好投手の印象が強い日本ハムの「21」。清宮はその印象を変えることができるだろうか。
(広尾晃 / Koh Hiroo)