中村紀洋氏インタ(上)フルスイングの“根拠”「ヒットの延長がHRではない」
複数球団を渡り歩いた野球人生、「死に物狂いで、できるところまでやったろうと」
「何かを起こしてやろうと思っていました。心の中ではね」
中村氏が1軍に定着してからの近鉄・大阪近鉄は下位に低迷したが、2001年は夏場に首位争いを繰り広げた。9月3日からの対西武3連戦をすべて落とし、パ・リーグは上位3チームが0.5ゲーム差以内にひしめく大混戦に。首位攻防戦での全敗にチームメイトは肩を落としたが、中村氏が気落ちすることはなかった。先を睨み、次の3連戦で3勝すればいいと、そのバッティングと同様に裏付けを作ったからだ。
「本当に弱かったから野次られることもありましたけど、観に来てくれるのは気になっているからです。その人たちをいつか笑顔にしたいと思って野球をしていました。最下位の時にキャプテンでしたから。言葉だけじゃなく、成績を残さない限りは誰もついてこないと思って、チームのためを考えながら」
不言実行。前年の39本塁打、110打点での2冠獲得に続き、46本塁打、132打点の打棒で、12年ぶりとなるリーグ優勝を果たしたチームの原動力となった。だが、球団4度目の日本シリーズに挑戦しても悲願は成就されず。「日本一になれない球団のまま終わってしまいましたけど、それが決められた運命だったのかな」と、当時を振り返る表情にわびしさを滲ませる。その後、中村氏はプロ野球球界再編をきっかけにメジャーリーグへ挑戦。1年後に日本球界へ復帰すると、中日と育成契約を結んだ2007年に日本一の頂に立った。
「中日ドラゴンズで日本一になれましたけど、よそ者が入ってきてレギュラーになって、ファンの人の気持ちはどうなのかなと。ファンを意識しながらプレーした1年だったので、53年ぶりの日本一で恩返しするつもりでした。あの時は、自分の役割を考えながらやっていたチームなので強かった。一人ひとりが考えられる選手が9人集まれば絶対勝てますから。それは究極ですね」
猛烈な勢いでパ・リーグを制した大阪近鉄に対して、地に足がつく成熟した野球を売りとするのが中日だった。異なる強さを体感した中村氏はその後、求められる場所を探して他球団を渡り歩く。
「好きなことを仕事にするのは贅沢な話ですけど、一生それでは食えません。プロ野球で活躍できる平均年数が7、8年なら、高卒の選手はいくつまでという話です。だから死に物狂いで、できるところまでやったろうと思って。クビと言われても何とかしようと転々としたわけです」
個人タイトルの数々とチームの栄光。プロ野球人生で多くを手にした一方、辛酸もなめた。だが、実力勝負の厳しさこそプロの世界なのだと言い切る。
「今のプロ野球の環境では給料をある程度に抑えられて、それで誰がやる気を出すのかと思います。アメリカなら、やればやるほど給料は上がって、その代わりできなかったらすぐにクビを切られる。それがプロです。そういう感覚が日本は遅れていると思います」