82歳で死去の元広島投手・鵜狩道夫氏 長嶋茂雄「幻の本塁打」事件の当事者
広島移籍で開花、ローテーションの一角に
1958年、鵜狩はチーム最多の23試合に先発し、6勝を挙げる。弱小広島にあっては主力投手の一人となった。
この年の9月19日の後楽園球場での巨人戦、先発した鵜狩は、1-1の5回、大型ルーキーとして人気絶頂の長嶋茂雄に勝ち越しのソロホームランを浴びる。しかし広島の一塁手、藤井弘は長嶋が一塁ベースを踏んでいなかったとアピール、竹元勝雄一塁塁審は一塁空過を認めてアウトを宣告した。長嶋のこの打席は「一塁ゴロ」となり、鵜狩は味方の援護もあって勝利投手となった。
これは大きな話題となり、翌日のスポーツ紙には投手鵜狩の名前に引っかけて「長嶋、うっかり」という見出しが躍った(実際の鵜狩の読みは「うがり」)。
この長嶋の「幻の本塁打」は、のちに大きな意味を持つことになる。この年の長嶋の本塁打数は29本。新人記録を更新したが、新人初の30本には届かなかった(翌1959年に桑田武が31本塁打を記録)。また長嶋はこの年、37盗塁、打率.305をマーク。「幻の本塁打」が幻でなければ、これまで誰も達成していない「新人でのトリプルスリー」を記録していたはずだった。
長嶋茂雄は抗議をせず、「完全に僕の失敗でした。ベースを踏んだかどうかははっきり言って自信がなかった」とミスを認めた。
鵜狩は翌1959年には11勝、1965年にも10勝を挙げ、広島の主力投手として10シーズンにわたってマウンドに上がった。最終年の1967年にはウェスタン・リーグ近鉄戦で完全試合を記録している。
通算成績は401試合55勝72敗 1312回、515奪三振、防御率3.11だった。
背番号「17」は、その後、山根和夫、川端順、大竹寛など主力投手が引き継ぎ、現在は岡田明丈がつけている。引退後は郷里鹿児島に帰り、運動用具店を営んだ。平成最後の年に、昭和プロ野球の名脇役がまた1人世を去った。
(広尾晃 / Koh Hiroo)