伝説の「10・19」を4番打者が振り返る 阿波野を沈めた同点弾の背景【後編】

「10・19」について語る当時のロッテで4番を務めていた高沢秀昭氏【写真:(C)PLM】
「10・19」について語る当時のロッテで4番を務めていた高沢秀昭氏【写真:(C)PLM】

勝負を決めた阿波野との対決

 1988年10月19日。この日、川崎球場で今はなき近鉄バファローズがひとつの伝説を作った。いわゆる「10・19」といわれるロッテオリオンズとのダブルヘッダーである。第1試合は近鉄が9回表2死から梨田昌孝のタイムリーで勝ち越し、シーズン最終戦となる第2試合で奇跡の逆転優勝に望みをつないだ。前編に続いて、この試合に4番打者として出場し、この年、打率.327でパ・リーグ首位打者を獲得した高沢秀昭氏の証言を交えながら、ロッテ側からみた「10・19」について紹介していきたい。

 18時44分。第1試合の興奮がまだ冷めやまぬまま、第2試合のプレーボールがかかった。近鉄ベンチは第1試合で劣勢から追いつき逆転勝ちしたことで“いてまえムード”が最高潮である。だが、ロッテの先発・園川一美はいたって淡々と自分の投球に徹し、序盤の近鉄打線を封じた。この頃のロッテサイドの空気について、高沢氏はこう語る。

「第1試合の途中から、近鉄が得点するとベンチ前に選手が出てきて組んずほぐれつ喜ぶようになったんです。そのために試合が中断してしまうこともあった。9回に勝ち越した時も、コーチの中西(太)さんとホームインした鈴木貴久が転げ回っていたじゃないですか? 僕らはそれをポカンと見ているしかないわけです。そうしているうちに、『近鉄だけで試合をしているのか。いいかげんにせいよ!』という雰囲気になってきました」

 気づけば、ロッテベンチも球場の熱気に引き込まれ、前のめりでゲームに没頭していた。こうした状況の中、第2試合も中盤からスコアが動き出し、エキサイティングなクロスゲームに発展する。

8回裏からはエース阿波野が中1日で2試合連続の登板

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