イチローが「スターの背番号」にした51番 マリナーズでは殿堂入り左腕も着用
大きな数字「51」を「スターの背番号」にしたイチロー
オリックスはイチローの背番号「51」を永久欠番にすることを検討しているという。「51」という大きな数字を「スターの背番号」にしたのは、間違いなくイチローだ。
イチローが「51」をつけたオリックス(阪急含む)と、シアトル・マリナーズの「51」の系譜を振り返ろう。
○阪急ブレーブス、オリックス・ブルーウェーブ
1954~1955/平田守/外野手
(1軍出場なし)
1956~1958/石川恵也/外野手
(32試48打10安0本6点2盗 率.208)
1960~1961/広野翼/外野手
(69試165打40安2本14点5盗 率.242)
1962~1963/川内工一/投手
(1軍出場なし)
1964~1965/遠藤浩司/投手
(1軍出場なし)
1966~1971/真田重蔵/コーチ
1972~1973/ライト/投手
(1軍出場なし)
1974~1980/山下浩二/投手
(4試0勝0敗0S 8回1/3 防12.38)
1981~1984/西尾利春/投手
(1軍出場なし)
1985~1987/福良淳一/内野手
(289試883打251安20本85点27盗 率.284)
1988~1991/八木政義/投手
(2試0勝0敗0S 2回 防22.50)
1992~2000/鈴木一朗・イチロー/外野手
(951試3619打1278安118本529点199盗 率.353)
阪急ブレーブスは、1936年のプロ野球草創期から参加する老舗チームだが、「51」を初めてつけたのは1954年の平田守。しかし1軍出場なし。1956年の石川恵也が、初めて「51」をつけて1軍戦に出場した。
1960年から「51」をつけた広野翼は代打逆転サヨナラ満塁本塁打で知られる広野功の兄。1958年夏の甲子園では、中軸打者としてエースの板東英二とともに徳島商を準優勝に導いている。
1966年から「51」をつけたのは、投手コーチの真田重蔵。戦前、海草中学のエースとして夏の甲子園で2連覇。プロでも178勝し、野球殿堂入り。全盛期の阪急ブレーブスでは、「51」をつけた真田コーチがマウンドに行く姿が見られた。
1972年からのケネス・ハワード・ライトは、オーストラリア出身だが、岡山東商に進み甲子園に出場。ドラフト4位で阪急に入団したが1軍出場なし。名前からKHと呼ばれた。1985年から3年間は、昨年までオリックス監督を務めた福良淳一が「51」をつける。好守の二塁手としてポジションを獲得、1988年からは「1」に背番号を改めている。
銚子商出身の右腕・八木をはさんで、1992年からイチローが「51」をつける。オリックス時代9年間の大活躍でスターの背番号に押し上げた。イチローがアメリカに移籍してから、オリックスで「51」をつけた選手はいない。