平成元年の名勝負「10・12」とは? 令和元年に、30年前の激闘を振り返る
平成元年のパ・リーグは、西武、近鉄、オリックスによる僅差の三つ巴に
新元号「令和」が制定された2019年。今からさかのぼること30年前の1989年は、当時の新元号「平成」が制定された年でもあった。この年のパ・リーグは近鉄、西武、オリックスの3チームが史上まれにみる僅差の優勝争いを繰り広げ、最終盤まで白熱したペナント争いが続けられた。
そんなシーズンを象徴する1日とされているのが、後に「10.12」と呼ばれる西武と近鉄のダブルヘッダーだ。リーグ4連覇中の西武に、前年に伝説のダブルヘッダー「10.19」の末に涙をのんだ近鉄が挑んだ、パ・リーグにおける平成最初のドラマ。それからちょうど30年が過ぎ、新たな元号を迎えた今、あらためてその熱き戦いを振り返っていきたい。
近鉄は1988年に前年最下位から大躍進を見せたものの、惜しくも勝率わずか2厘の差で常勝軍団・西武の後塵を拝して2位に終わっていた。大石第二朗、新井宏昌、村上隆行、小野和義と好選手も多く、戦力も整いつつあったこの年は、前年の躍進もあって優勝候補の一角に。日本中の関心を集めた「10.19」の悔しさを、“悲劇の主役”となったチームが晴らせるかが注目されていた。
前年、大麻の不法所持で逮捕されたリチャード・デービスの穴をシーズン途中入団のラルフ・ブライアントが埋めたように、この年もチームの新陳代謝は機能していた。かつてMLBで本塁打王に輝き、近鉄でも2年続けて打率3割、20本塁打をクリアしていた大ベテランのベン・オグリビーが1988年限りで退団したが、開幕直後に入団したハーマン・リベラが勝負強さと長打力を兼ね備えた打撃を披露し、後釜の4番として打線を機能させた。
この年の近鉄を紹介するにあたって、加入2年目を迎えたブライアントの存在は語り落とせない。前年にわずか74試合で34本塁打を記録した大砲は、この年は6月までの3カ月間で18本塁打、打率.239と絶好調とはいかず。特に6月はわずか2本塁打、打率.191とスランプに陥っていた。チームも6月末の時点で27勝26敗4分けと勝率5割付近にとどまり、37勝19敗1分けで勝率.661だったオリックスに大きく水をあけられていた。
しかし、ブライアントは7月に入ると11本塁打、打率.321と一気に調子を上げ、8月にも9本塁打、打率.310と、たった2カ月で20本塁打を荒稼ぎ。それと呼応するかのように、チームも2カ月連続で月間14勝を記録して大きく復調した。途中加入をきっかけにチームの成績を大きく上昇させた前年同様、頼れる助っ人の打棒がチームを上昇気流に乗せていった。
王者・西武はスタートダッシュに失敗し、4月を終えた段階で6勝10敗の最下位というまさかの事態に陥っていた。そんなチームの救世主的存在となったのが、6月に入団したオレステス・デストラーデだった。
翌年から3年連続本塁打王、2年連続打点王に輝く「カリブの怪人」は、シーズン半ばの6月20日からの出場ながら、83試合で32本塁打と凄まじいペースでアーチを量産。6月末の時点で23勝25敗4分けだったチームも、大砲の加入と歩調を合わせるかのように息を吹き返し、9月末には僅差ながら首位を奪還するほどのV字回復を見せた。
シーズン最終盤の10月に入ってからも近鉄、オリックス、西武の三つ巴の争いは続き、1日ごとに情勢が変わるほどに拮抗した展開となっていた。そんな中で行われる、10月10日からの西武と近鉄の直接対決3連戦が極めて重要な意味合いを持つことは明らかだった。この時点で西武に2ゲーム差をつけられていた近鉄は、1試合敗れた時点で優勝から遠ざかるという、まさに絶体絶命の状況に追い込まれていた。
3連戦の初戦は西武・渡辺久信、近鉄・山崎慎太郎という実力者同士の投げ合いにより、1点を争う緊迫した展開に。2対2で迎えた8回、リベラが渡辺からこれぞ4番という値千金の決勝本塁打を放って近鉄が先勝。続く11日の試合は雨天中止となり、翌12日にダブルヘッダーが組まれることになった。
この時点で1位西武と2位近鉄のゲーム差は1、近鉄と3位オリックスのゲーム差はなし。近鉄とのダブルヘッダーで西武が1勝1分け以上ならば、同日に行われるオリックスとロッテのダブルヘッダーの結果次第で、その日のうちに西武の優勝が決まるという状況だった。