ホークス捕手の系譜に新たな歴史 甲斐が背負う背番号「19」を振り返る

ミランダの退団によって野村以来43年ぶりに捕手として「19」を付ける

 政野が応召すると神田武夫が「19」をつける。神田は沢村榮治を輩出した京都商の出身。甲子園で活躍し、南海でも25勝、24勝と大車輪の活躍だったが、現役中に肺結核で病死した。戦後、大橋一郎が1年だけ「19」をつけ、1949年にはアンダースローの武末悉昌(たけすえ・しっしょう)が入団し「19」に。大阪タイガースとの大争奪戦の末に入団し21勝を挙げたが翌年西鉄に移籍。

 右腕投手の田中達夫が2年付けた後に、捕手の筒井が「19」に。筒井は1949年、巨人との試合中に三原脩監督に殴られるという「三原ポカリ事件」の当事者となった。筒井は1955年に新球団高橋ユニオンズに移籍。

 1956年、野村克也が「60」から筒井の背番号を継承する形で「19」をつけた。テスト生同然で入団し、1955年は1軍出場がなく解雇の恐れさえあった野村だが、この春のハワイキャンプでのまじめな練習風景が、山本一人(のち鶴岡一人)監督の目に留まった。山本監督は記者団に「キャンプの収穫は野村だけや」と語ったとされるが、野村は22年にわたって「19」をつけて活躍。それ以前も「19」をつけた捕手はいたが、野村の長期にわたる活躍で「19」は捕手の背番号というイメージが広まったといえよう。

 野村が退団すると山内孝徳が「19」をつける。山内は南海がダイエーに身売りされ、本拠地も福岡に移転した時期にエースとして活躍した。

 その後は1992年のドラフト1位大越、ニコルズ、永井と投手が「19」をつける(大越はのち外野手に転向)。最近も、左腕セットアッパーの森福、先発投手のミランダがつけていたが、ミランダの退団によって、甲斐拓也が野村以来43年ぶりに捕手として「19」をつけることとなった。

 全くの無名から這い上がって不動の大捕手となった野村克也と、育成選手から競争に打ち勝って正捕手となった甲斐拓也。二人のキャリアは似通っている。ホークスの「捕手の系譜」に新しい歴史が刻まれた。

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