NPB通算474発 野球殿堂入りした田淵幸一氏が現役生活の危機に直面した2度の死球
入団2年目に頭部直撃で長期療養、36歳時に左手尺骨を骨折
関西のスポーツ紙は「田淵の死球禍」の話でもちきりとなった。しかし、田淵の症状は当初の発表よりも重かった。9月3日には田淵は「頭蓋内血種」の疑いが強くなり、長期療養の可能性があることが発表された。
そして9月7日、球団から田淵幸一は「全治3か月」という発表があった。「来年キャンプには元気に参加できると思う」と球団は見通しを示していた。しかし、田淵の回復はなおも遅れ、開幕には間に合わなかった。夏前に試合に出場したが、負担の大きな捕手ではなく、外野を守り、80試合出場にとどまった。
田淵が捕手に復帰したのは1972年。以後、王貞治の最大のライバルとなり、1975年には王の14年連続本塁打王を阻止して43本で初の本塁打王になる。
しかし1970年の死球は、田淵の選手生活に暗い影を投げかけた。30歳を過ぎて田淵は体重が増え、守備の機敏さも失った。甲子園ではヤジを浴びることも多くなっていた。
1979年には、大型トレードで西武ライオンズに。田淵本人の意に染まぬトレードだったとされる。しかし田淵は新天地で生まれ変わる。指名打者というパ・リーグならではのポジションに座って1980年には43本塁打。若いライオンズの主軸打者として存在感を示す。
1983年、36歳の田淵は春先から絶好調。7月10日の時点で29本塁打を放つ。当時のNPB記録だった王貞治のシーズン55本塁打の更新も夢ではないと思われたが、7月13日、日生球場の近鉄戦で、5回に柳田豊の投球を左手に受けた。大阪市内の病院に運ばれるが、診断は「尺骨骨折」。全治4週間と診断された。
田淵は「やっぱりアウトだった。痛みが普通と違うので、嫌な感じがしていました。全部パーになった」と嘆いた。シーズン終盤に出場してもう1本だけ本塁打を打ったが、この年は30本塁打で終わる。田淵幸一は翌1984年限りで引退した。
通算474本塁打は史上11位の偉大な記録だが、2つの死球禍がなければ、田淵幸一の本塁打記録はさらに伸びていただろう。
(広尾晃 / Koh Hiroo)