日本野球150年で起こった「試合中止」の憂き目 戦争、ストライキ、米騒動も…

米騒動、太平洋戦争でアマ野球は中止に

○「米騒動」で中等学校野球の全国大会が中止

 1915(大正4)年には、今の高校野球甲子園大会の前身である全国中等学校優勝野球大会が始まった。大阪朝日新聞社の発案で始まったこの大会は、第1回から大観衆が押し寄せる人気大会となり、野球の全国的な普及につながった。

 しかし、1918(大正7)年7月、富山県でコメの価格高騰に抗議する人々が米問屋や資産家の家を襲う暴動が発生。「米騒動」と言われたこの暴動は、全国に波及した。それでも第5回全国中等学校優勝野球大会は、通常通り開催するとして、8月9日には14の代表校を選出。13日には、当時の開催球場だった鳴尾球場に選手、関係者が集まって組み合わせ抽選会が行われた。

 しかし、その前日に兵庫県にあった大手商社の鈴木商店が焼き討ちで全焼。暴徒は選手の宿舎付近まで押し寄せたので、主催者の大阪朝日新聞社は、翌14日に「社告」で、大会の中止を告知。16日に正式に中止となった。

○太平洋戦争勃発で中等学校野球、大学野球そのものが中止

 甲子園球場で行われるようになった中等学校野球大会は、全国的な人気を集める国民的なスポーツ大会になっていた。しかし1941(昭和16)年の第27回大会は、国際情勢が悪化し、政府、軍部が「不要不急の一般人の県をまたいだ移動」を禁止したため、地方大会が次々と禁止。代替的に「県大会」を実施した県もあったが甲子園での大会は中止になった。

 この年12月8日には太平洋戦争が始まった。主催者の大阪朝日新聞社は翌1942(昭和17)年「中等学校野球大会」そのものの終了を宣言。この年7月には文部省の主催で「全国中等学校錬成野球大会」が行われ、全国から16の代表校が甲子園に集まり、徳島商(徳島)が優勝したが、この大会は甲子園の歴史からは除外されている。軍部の管理下にあったため「打者は兵士になるのだからボールを恐れるな」と通達があり「死球」のない特別ルールだった。

 これを最後に、中等学校野球は終戦翌年の1946(昭和21)年まで行われなくなった。戦前、全国的な人気となっていた東京六大学も1943(昭和18)年4月28日、主催する東京大学野球連盟が解散し、終焉を迎えた。以後、大学の代表的な野球選手も学徒動員で戦地に赴くこととなった。

球界再編問題ではストライキを決行、140試合予定も138試合でシーズンを終える

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