【野球を好きになった日15】失敗体験から知った野球の奥深さ パ元審判員・山崎夏生氏

自暴自棄になりかけた時、救ってくれたのは母校の夕闇だった

 前述のようにたいした野球センスもありませんから、1軍に昇格するのに8年もかかりました。さらに本当にプロとしての見る力に自信を持てたのは15年目でした。そこからしばらくはいい時代が続いたのですが、1軍出場1000試合目前でつまずきました。正直に言います。天狗になり、野球を舐めたのです。もう大丈夫だと練習を怠ければ野球の神様は怒ります。

 40半ばの頃、開幕早々に3試合も続けてミスジャッジし2軍落ちしました。若手にも抜かれ、どうせオフにクビになるならば今辞めても同じだ、と夏場にはもう諦めかけました。で、オールスター休みの明ける前日、野球に別れを告げるため母校(新潟県立高田高校)のグラウンドに行きました。その夕闇に、ヘタクソだけれどとにかく野球が大好きな丸坊主の15歳の自分の姿が見えました。その瞬間、やはり俺は野球が好きなのだ、辞めたくない、と心が揺さぶられました。クビを宣告されるまではもがき続けよう、自分の心に正直になれ、そう決意したのです。1999年7月25日、あの日からまた一段と野球が好きになりました。あれから20年、もう揺らぐことはありませんでした。

 今の球児たちに一言だけ。新型コロナウィルスという見えない敵に阻まれ、存分に野球のできない日々が続いています。ひょっとしたら夏の甲子園や春秋のリーグ戦も開催が危ぶまれています。最上級生にとっては焦りと不安ばかりのはず。ただこれも自分の出会う運命の一部と割り切るしかないのです。今、一番大切なのは命を守ること、次は学業や仕事を優先させること、野球はどんなに好きでも3番目以下なのだ、という原則を忘れてはなりません。そして今の野球をできぬ辛さは、どれほど自分が野球を好きなのかを知るチャンスともなります。また夏空の下で力一杯のプレーをした時、以前とは違った野球の魅力を知るでしょう。

(山崎夏生 / Natsuo Yamazaki)
1955年7月2日、新潟県上越市生まれ。64歳。新潟・高田高、北海道大学で主に投手として硬式野球部でプレー。1979年に新聞社に入社も野球現場への夢を諦められずプロ野球審判員を目指す。1982年にパ・リーグ審判員に採用され、2010年まで審判員として活躍。その後はNPBの審判技術指導員として後進の育成。2018年に退職。現在はフリーで活動し、講演やアマチュアの審判員として現役復帰し、野球の魅力を伝えている。

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