飯田哲也さん証言 全盛期の燕軍団は「どうやったら目立てるかをみんな考えていた」
「胴上げの時に後ろを向いたのは、僕が最初だと思います」
ただし、身なりに関しては厳しかったという。「茶髪、ロン毛、ひげはダメ。公共交通機関で移動する時は、スーツ着用はもちろんですが、革靴にじゃらじゃらしたものがついていたり、スーツと合わない色の靴をはいていると、注意されました。要するに、社会人として印象の悪い身なりをするな、周りの目を気にしなさい、周りに評価される人間になりなさい、ということです」。その上で、個々のスタイル、自由を認めていたというわけだ。
「どうやったら目立てるかを、みんなが考えているようなチームだった」という当時の燕ナインにあって、飯田さんも“爪痕”を残した。
「胴上げの時に後ろを向いたのは、僕が最初だと思います」
1992年10月10日。ヤクルトは敵地甲子園で阪神に勝ち、野村監督就任3年目にして、広岡達朗監督時代の78年以来14年ぶりのリーグ優勝を決めた。しかし、飯田さんは宙を舞う野村監督に背を向け、スタンドを向きバンザイしながらジャンプ。テレビのスポーツニュースや翌日の新聞で、胴上げの最中に1人だけ顔が見えている飯田さんはかなり目立った。「あらかじめ計算していたわけではありません。僕は外野手なんで、優勝が決まってから走っていっても、胴上げの輪の真ん中には入れず手が届かない。それでなんとなく後ろを向いたんだと思います。翌日新聞を見て『こっち向いてるの、おれだけだ』みたいな。最近の胴上げでは後ろを向いている選手も多いですけどね」と笑う。
「一久とかは、まだ携帯電話が普及していない時代に、“写ルンです”(レンズ付きフィルム)を持ち込んで胴上げを撮っていたと思います。巨人なら絶対にやらないようなことをやってました。好き勝手やれる雰囲気がありました」と振り返る飯田さん。「当時のヤクルトについては、メディアに言えないこともいっぱいありますけどね」とニヤリ。穏やかな表情で、かつての偉大で愉快な仲間たちに思いを馳せた。
(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)