変化球はいつ誕生した? サイ・ヤング、沢村栄治、杉下茂ら“魔球”の歴史

沢村栄治はカーブ、杉下茂はフォーク、稲尾和久はスライダーを駆使した

 日本でも投手は戦前から、速球に加え、カーブなどの変化球を投げていた。プロ野球草創期の大投手、沢村栄治は速球に加えて、大きく縦に落ちるカーブ(ドロップ)を投げた。まるで急流のように落ちたので「懸河(急流のこと)のドロップ」と言われた。以後も、日本のエースは速球と懸河のドロップを投げるものとされた。

 戦前、アメリカの物理学者は「カーブは目の錯覚で曲がったり落ちたりするように見えるだけで、実際は曲がっていない」と結論付けていた。戦後になって、高速撮影などで「カーブは実際に曲がっている」ことが証明された。1948年に公開された「エノケンのホームラン王」は、当時人気絶頂の喜劇俳優・榎本健一を主役にし、三原脩や川上哲治なども出演した野球映画だが、この中にスローモーションで撮影されたカーブを投げるシーンがインサートされており、カーブが曲がっていることを映像で証明している。

 明治大学から1949年、中日に入団した杉下茂は、フォークボールを駆使して200勝投手になった。杉下はフォークに握りを打者に見せてから投げることもあったが、打者はわかっていても打てなかったという。杉下のフォークは、回転せずに打者の手元へきて急に落ちた。今でいうナックルのような球だったが、ほとんど打たれなかった。ただ杉下はここぞという時にしかフォークを投げなかった。捕手は変化の予測がつかないため、体で止めなければならなかった。1958年に引退したが、1961年に復帰し、大毎で1シーズンだけ投げている。このとき、杉下のフォークを受けた捕手の醍醐猛夫は取り損なって突き指をし、大きく指が曲がってしまった。

 稲尾和久のスライダー、平松政次のシュート、山田久志のシンカーなど、歴史に残る大投手は速球に加え、決め球となる変化球を持っていた。今では、プロ野球の投手は4~5種類の変化球を持っているのが普通だ。スライダー、チェンジアップ、スプリットなどの変化球は、ほとんどの投手が投げるようになっている。清水直行はロッテの投手コーチ時代「若い投手は多くの球種を覚えたがるが、C級品の変化球をいくつも投げられるようになっても仕方がない。今、自分が持っているB級品の変化球をA級に磨き上げるほうが重要だ」と若い投手を戒めていた。

 かつては投手が「経験」「勘」で体得していた変化球だが、今ではトラッキングデータなどを解析して、自らの変化球を作り上げる投手も出てきている。2019年12月、法政大学多摩キャンパスで行われた日本野球科学研究会大会にゲストスピーカーとして登場したMLBシンシナティ・レッズの70勝右腕トレバー・バウアーは「ボールの変化量」のマトリックスを見ながら自身の球種について解説し、変化球の変化の度合いや方向を調整するためにトラッキングデータを活用していると語った。

変化球は、野球というゲームを複雑にし、様々な魅力的なシーンを創ってきた。今後も多彩な変化球が生まれ、野球のレベルを押し上げることだろう。

(広尾晃 / Koh Hiroo)

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