「記念に残るよ、と冗談を」篠塚氏が振り返る、槙原氏のバックスクリーン3連発被弾

長きに渡り巨人の主力として活躍した篠塚和典氏【写真:荒川祐史】
長きに渡り巨人の主力として活躍した篠塚和典氏【写真:荒川祐史】

名手・篠塚氏が語る槙原氏との秘話「『シノさん、どういう風に握ってるんですか?』と…」

 読売巨人軍史上屈指の好打者で通算1696安打を放ち、守備でも名二塁手として鳴らした篠塚和典氏(1992年途中までの登録名は篠塚利夫)。Full-Countでは、篠塚氏が現役時代にともに戦った名投手たちを振り返る「篠塚和典 背中を見てきた投手たち」を連載中。今回は斎藤雅樹氏、桑田真澄氏とともに先発3本柱を形成し、1994年に史上15人目の完全試合を達成した槙原寛己氏について語る。

 槙原氏は愛知・大府高から1981年ドラフト1位で巨人入り。2年目の83年4月16日の阪神戦(甲子園)で、プロ初登板をなんと延長10回完封勝利で飾った。快速球が持ち味で、同年と84年にマークした155キロは当時の日本最速記録だった。

 しかし、85年にとんでもない挫折を経験する。4月17日の阪神戦(甲子園)でランディ・バース氏、掛布雅之氏、岡田彰布氏に食らった3者連続バックスクリーン弾である。二塁を守っていた篠塚氏は「確か、マキ(槙原)には『こういうこともあるよ』とか『記念に残るよ』と冗談を言ってあげたと思う。そうでないとかわいそうだから」と振り返る。

 槙原氏は同年7月の試合中に、股関節付近を骨折する重傷を負い残りのシーズンを棒に振った。翌86年のシーズン中、速球主体のピッチングに限界を感じ始めていた槙原氏に“再生”のきっかけを与えたのが、篠塚氏だった。

「ナゴヤ球場での中日戦の試合前でした。中日の練習中、われわれは野手同士でキャッチボールをしたり、グラウンド上(ファウルゾーン)にあったブルペンでピッチングのまねごとをしたりして、スライダーも投げていました。そこで当時の投手コーチに『よく曲がるね』と声をかけられ、その日のうちか翌日に、マキが『シノさん、どういう風に握ってるんですか?』と聞いてきたのです。大きく曲げる時はこう、小さく曲げる時はこう、と教えてあげましたよ。試してみたらよく曲がったそうで、結構早く試合で使うようになりました」

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