グラブはキッチン用品から生まれた 素手から始まったグローブの長くて深い歴史
日本チームは捕手がミットをつけるだけで、野手は素手でアメリカチームと対戦
日本に野球が伝わってきたのは、1872年頃だとされるが、1890年代には、旧制第一高等学校が強豪チームとなり、横浜の駐留アメリカ人チームと国際試合を行うようになる。当時、アメリカチームは全員がミット、グラブをはめていたが、日本は一部の捕手がミットをつけていただけで、他の野手は素手だった。これでは勝てないと、日本選手もグラブを着用するようになり、以後、日本でもグラブ、ミットが普及するようになった。
20世紀にはいると、グラブ、ミットは指先まで皮で覆ったものになるが、当時は5本の指をバラバラに動かすことができる単なる「革の手袋」だった。しかし、1910年代に入るとグラブの親指と人差し指の間に革製の細長い部品が取り付けられたものが出てくる。この部分で打球を止めることができるようになったのだ。これがのちに「ウェブ」へと発展していく。この時期には、キャッチャーは、肉厚で真ん中が丸くくぼんだミットを使用するようになる。このミットの登場でキャッチャーは投手の速球をしっかりと止めることができるようになった。またファーストミットも、グラブよりも大型で長い形状になっていった。
日本でプロ野球が始まった当初も、ほぼこうした形状のグラブやミットが使用されていた。このころのグラブは、5本の指で「つかむ」スタイルだったためにエラーが多かった。NPBのシーズン最多失策は、1940年に翼軍の遊撃手・柳鶴震(やなぎつるじ)が記録した75だ。昨年のNPBの最多失策は、阪神・大山悠輔の20だから、今とは次元が違うことがわかる。
野手の守備が飛躍的に向上したのは、1950年代半ばにグラブの「ウェブ」が考案されてからだ。「ウェブ」が付いたグラブは親指を除く4本の指は紐で結ばれ、一枚の板のようになった。それまでのグラブは、打球を「つかむ」ものだったが、以後のグラブは打球を「すくい上げる」ものへと進化した。