高校野球の純粋さ、ひたむきさを訴え続けた福嶋一雄氏 アマ野球界に残したもの

1947年は春夏の甲子園に出場、夏は一人で5試合を投げぬいて優勝

 1946年には夏の甲子園に出場、1947年は春夏の甲子園に出場、夏は一人で5試合を投げぬいて優勝。一躍その名を知られるようになる。しかし、当時の日本は、まだ終戦後の混乱の中にあり、甲子園で活躍したからといって、プロ野球や社会人野球などの将来が開けたわけではなかった。

 福嶋氏は「先輩たちが残してくれた野球道具で野球ができる嬉しさに、夢中でプレーしただけ」と語っている。ユニフォームはごわごわの素材で、首のあたりが擦れて痛かったという。また食糧に乏しい時代だけあって、甲子園には球児が各自で米を持参し、宿舎で炊いてもらった。勝ち進むと持参した米も乏しくなったが、負けたチームの選手たちが米を譲ってくれてしのぐことができたという。

 1948年春の大会は1回戦で京都一商に延長13回2-3で惜敗した。この年の4月1日から学制改革が実施され、小倉中等学校は小倉高等学校となった。また旧制中等学校は5年制だったが、新制高等学校は3年制。福嶋氏は過渡期の生徒として、1949年まで5年間在籍した。

 この年の夏は、地方大会から甲子園まで11試合をすべて投げぬいた。甲子園では5試合すべて完封勝利。45イニング無失点の大記録を樹立する。これは1939年夏の和歌山・海草中の嶋清一の記録に並ぶ甲子園記録だ。しかし、福嶋氏は気負うことはなかった。後年「私はどちらかと言えば打たせて取る投手。バックを信頼して投げただけ」と淡々と語っている。なおこの大会から古関裕而作曲の「栄冠は君に輝く」が、大会歌として歌われるようになった。

日本野球連盟理事・九州地区連盟理事長として、アマチュア球界の発展に貢献

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