70年前はプロ野球よりも大学野球が人気? スポーツ紙で見る過去と現在の野球の扱い

2019年の日刊スポーツの紙面【画像提供:日刊スポーツ】
2019年の日刊スポーツの紙面【画像提供:日刊スポーツ】

1950年の春から3連覇を成し遂げた早稲田大学のメンバーは?

 まずは2番・ライトで出場している荒川博選手だ。早稲田大学から毎日に進んだ後、引退後は巨人とヤクルトで指導者として活躍。特に巨人では、王貞治選手にその代名詞でもある「一本足打法」を指導したことでも有名だ。王選手は後に通算868本塁打の世界記録を樹立。荒川選手はその生みの親とも言える存在だろう。

 4番・ファーストで出場している石井藤吉郎選手は1995年に野球殿堂入りを果たしているレジェンド中のレジェンドだ。選手時代には通算114安打の連盟記録を樹立し、チームの4度のリーグ優勝に貢献、特に1950年には主将としてチームを春夏連覇に導いた。ただ、プロ野球には進まず、選んだのは社会人野球の世界だった。井上さんによれば、当時はプロ野球ではなく社会人野球を選択する有力選手も多かったという。

「大学が最高峰みたいな時代でもあったので、有力な選手でもアマチュアに進み、都市対抗野球で活躍する道を選ぶ場合もありましたね」

 入団した大昭和製紙でも主将としてチームをまとめて1953年の都市対抗野球大会優勝、1956年の世界選手権大会優勝にも貢献している。現役引退後は指導者としてもその手腕を発揮し、母校である水戸商業と早稲田大学、そして全日本の監督を歴任した。

 6番・ピッチャーの末吉俊信投手もリーグ通算83試合登板、44勝20敗を記録している花形選手。83試合登板は若林忠志に次ぐリーグ歴代2位、44勝は当時の最多記録で、現在は山中正竹、江川卓に次ぐリーグ歴代3位の大記録だ。上記のメンバーも加えて、まさにスター揃いのスタメンだったと言えるだろう。

 一方の法政大学でも7番・捕手として出場している根本陸夫選手は2001年に野球殿堂入りを果たしている。特に指導者、そしてフロントの責任者としての手腕は多くの野球ファンに知られている。4球団で監督を務めたあとには、西武とダイエーでフロント入りし、その幅広い人脈と行動力で、チームを黄金時代へと導いた。こうした活躍が70年後のプロ野球の礎となったことは言うまでもない。

 ここで扱った話題以外にも、2つの紙面には数多くの違いがあるはずだ。ぜひとも自身の目で当時のスポーツメディアを比較してもらいたい。第5回までは1950年シーズンの前半までの記事について取り上げた。第6回以降は、優勝チームと個人タイトルが決定するシーズン後半を中心に触れていく。

(「パ・リーグ インサイト」吉田貴)

(記事提供:パ・リーグ インサイト

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