オリックス最後の胴上げ投手が歩む第2の人生 “ノムラの教え”を胸に高校球児を指導

野村ノートは現在も治療院の棚に「今でも色々な言葉を思い出す」

 治療院の棚には古くなった1冊のノートがある。最初のページに刻まれた日付は1990年2月2日。ヤクルト時代にミーティングでメモしたものだ。当時の監督は野村克也氏。通称「野村ノート」だ。

 投手のクセや配球などデータを駆使した「ID野球」で知られる野村氏だが、野球の理論に入ったのは、ミーティングを10回、20回と重ねてからだった。「他人の痛みが分かる人間であれ」、「責任感と使命感が知識を伸ばす」、「人間は環境、経験、遺伝でつくられる」。プロ野球選手である前に、社会人として、人としてどうあるべきかを語りかけたという。

「引退してから一層、野村監督の言葉の重みを感じるようになった。今でも色々な言葉を思い出す。貴重な時間でしたね。配球や理論も学んで、野球の考え方が変わった。ただ、自分にはそれを活かす制球力が足りなくて、ヤクルトで結果を出せなかった」

 1992年の試合で相手投手に押し出し四球を許して2軍に降格した。野村監督からの信頼を失い、翌年は1軍登板なし。1995年にトレードでオリックスに移籍した。その年は50試合に登板して防御率1.83。リーグ優勝に貢献した。そして、日本シリーズで対戦したのが野村監督率いるヤクルト。試合前に挨拶に行くと「お前を嫌いでトレードに出したわけではないからな」と声をかけられたという。

外部コーチを務める磐田南高では“人間形成”を重視する

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