大願の金メダル叶えた“一体感” 侍J・稲葉篤紀監督が実践した最強チームの作り方
恩師はバルセロナ五輪代表監督、小久保の姿勢学び努力の人に
五輪のコーチ陣にはメダルがない。記念撮影では菊池涼介内野手(広島)が稲葉監督の首に、自身のメダルをかけに来てくれた。ついに手にした金メダルを両手で大事そうに支えると、満面の笑顔を見せた。試合後のテレビインタビューに立つと「サポートしてくださった方々もいますし、本当にみんなでつかんだ金メダルだと思います」とハイテンションでまくし立てた。支えられた1人が、稲葉監督にとっては恩師にあたる山中正竹・侍ジャパン強化本部長だ。そもそも指揮官と“国際野球”の出会いは、この人なくてはあり得なかった。
野球が正式種目となった1992年バルセロナ五輪の代表監督が山中氏だった。まだ青学大の学生だった小久保裕紀・前日本代表監督や伊藤智仁投手(当時三菱自動車京都、現ヤクルト1軍投手コーチ)らを擁し、銅メダルを獲得した。まだプロ選手が五輪に参加できない時代、どうやって当時世界最強のキューバを倒そうかと知恵を絞り、戦っていた。4年間をかけてチームを作り上げ、個性あふれる選手一人ひとりに役割を自覚させていくという方法論は、稲葉が率いた東京五輪代表と酷似する。
山中氏が五輪代表監督という大役を終えた1994年、母校・法大の監督に就任すると、そこには主軸で起用され続けながら、今一つ殻を破り切れない稲葉がいた。山中氏は当時の稲葉を「今もそうだけどとにかく謙虚でね、自分が凄い選手だということに気づいていなかったんです。だから本気で野球にも取り組んでいなかった」と振り返る。覚醒を促そうと「俺は世界の野球を見てきたけど、その中でもお前はこれだけ凄いんだよ」と説き続けた。東京六大学のリーグ戦で、4番から外すショック療法を試みたこともある。さらにバルセロナに至る過程で、向上心の塊だった小久保の姿を伝えていった。
気が付けば稲葉は、夜に合宿を抜け出し、ひたすらバットを振るようになっていた。豊かな素質に恵まれた男が、努力という武器を手に入れた。翌年ヤクルト入りし、2005年には日本ハム移籍。いつしかスランプからの脱出法を「振ること。俺にはそれしかできないから」とまで言うようになった。太く長い活躍は、42歳で引退するまでに通算2167安打という数字が物語る。
五輪のベンチで共に戦った金子誠、建山義紀の両コーチは、現役時代から行動を共にし、野球観をすり合わせてきた仲。清水雅治三塁ベースコーチは、現役時代の日本ハムで出会い、走者や外野手を的確に動かす能力に驚かされた存在だ。自身の野球人生を形作ってきた出会いを「チーム稲葉」として最高の舞台で生かした。野球人・稲葉篤紀の経験値はすべて、この金メダルのためにあったと言っても、決して大げさではないだろう。
(羽鳥慶太 / Keita Hatori)