30年前にPL学園を完封 東海大相模の選抜準V右腕が伝えたい「甲子園」の意味

近鉄退団後に競輪を志すも不合格、通信制の大学で教員免許取得

 準決勝の天理戦は中継ぎで勝利に貢献し、帝京との決勝では再び先発のマウンドに立った。甲子園5試合目の登板で3連投。疲労で握力が落ちていた吉田さんは本来の直球を投げられず、握りを変えてツーシームやチェンジアップのように球を動かして打者をかわした。

 相手投手は現在巨人で2軍投手コーチを務める三澤興一。「打席に立って三澤さんの投球を見たら、えげつない直球とスライダーでした。4連投なのに涼しい顔で投げていました。自分は3連投なので疲れは言い訳にならないと思いました」。吉田さんは三澤さんと最後まで投げ合ったが、2-3で敗れて優勝にあと一歩届かなかった。

 選抜での活躍もあって、吉田さんは東海大相模3年の秋に近鉄からドラフト2位指名されてプロに入った。だが、肘や肩の故障に悩まされて1軍での登板はなく、4年でユニホームを脱いだ。まだ22歳と若く、足腰には自信があったため、競輪選手を志した。垂直跳びや背筋などの適性検査には合格したものの、実際に競輪用の自転車をこぐ2次試験で不合格。スポーツから離れ、母親が経営する浜松市の飲食店で働くことにした。

 再びグラブを手にしたのは、知り合いに声をかけられたためだった。野球塾を手伝ってほしいと依頼され、飲食店で仕事をしながら子どもたちに野球を教えることになった。「野球を通じて成長していく子どもたちを見るのがうれしかったですね。高校、大学、社会人と野球を続けてもらえたら、長期的に成長を楽しめると感じました」。プロ野球選手を引退して4年。吉田さんは高校野球の指導者を目指すと決意した。飲食店で仕事を続けながら通信制の大学に通い、5年以上かけて社会科と情報科の教員免許を取得した。

「楽しく生きる、社会で活躍するために野球をツールにしてほしい」

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