「お前をプロに入れてよかったかな?」名球会入り打者が感謝する野村克也の言葉

南海プレイングマネジャー時代の野村克也氏【写真:共同通信社】
南海プレイングマネジャー時代の野村克也氏【写真:共同通信社】

新井宏昌氏のプロ初出場は「1番・左翼」、野村監督から「元気だな、お前いくか」

 南海、近鉄で通算2038安打を放って名球会入りし、イチロー氏(現マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)の恩師としても知られる新井宏昌氏。1974年に、当時プレイングマネジャーを務めていた野村克也氏に見い出されてドラフト2位で南海入り。ルーキーイヤーの前期は2軍暮らしだったが、後期に1軍デビューを飾ると“安打製造機”へのプロ野球人生がスタートした。本人の証言を元に振り返っていく連載の第2回は「野村氏と過ごした3年間と、近鉄への移籍」。

 プロ1年目の1975年前期は1軍出場なしに終わった新井氏。だが後期に入る直前、大阪・中百舌鳥球場で行われた1軍練習に参加すると野村氏から猛烈なゲキを飛ばされた。「何してんだ。俺が指名したんだから活躍してもらわないと困る」。この言葉がレギュラー獲りのキッカケとなった。

 後期がスタートすると外野手に怪我人が相次いだこともあって、1軍昇格を果たす。プロ初出場は同年7月25日、平和台球場で行われた太平洋クラブライオンズ(現西武)戦だった。試合前、軽快で元気いっぱいに動いている姿を見た野村氏から「元気だな、お前いくか」と声をかけられ、いきなり「1番・左翼」で出場した。

「ビジターゲームで初出場。しかも1番、どうしようかなと。その中で(当時ヘッドコーチだった)ドン・ブレイザーが『1試合に1回はセーフティバントをしろ』と言っていた言葉が頭に残っていたんです」

プロ3年目の1977年は怪我で不振も起用「何度も叱られて、当時は何で使うんだ?と」

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