命を賭けた仰木彬氏の“最後の1年” 王監督からの慰留断り退団「腹をくくった」

監督就任会見に臨む小泉球団社長、仰木監督、中村GM(左から)【写真:共同通信社】
監督就任会見に臨む小泉球団社長、仰木監督、中村GM(左から)【写真:共同通信社】

新井宏昌氏は03、04年のダイエーで打撃コーチを務め“ダイハード打線”を形成

 王貞治監督からの誘いを受け、2003年にダイエーの打撃コーチに就任した新井宏昌氏。就任1年目にリーグ優勝、日本一を達成するなど充実した指導者人生を送っていたが、2004年シーズンを最後に退団することになる。本人の証言をもとに振り返っていく連載の第12回は「仰木彬監督が命を懸けた合併球団」。

 2003年のダイエーはプロ野球史上最高のチーム打率.297をマークした“ダイハード打線”でペナントを制した。松中信彦、城島健司、井口資仁、バルデスの“100打点カルテット”、新井氏の助言で不動の1番に成長した村松有人らがチームを引っ張った。

 翌2004年は小久保裕紀が無償トレードで巨人に移籍。天然芝でのプレーを希望した村松がオリックスにFA移籍し、戦力の低下が危ぶまれたが、チーム打率.292をマークするなど強力打線は健在だった。勝率1位でレギュラーシーズンを終えたものの、この年から導入されたプレーオフで2位の西武に2勝3敗で敗れた。

 チームは連覇を逃したものの、打撃コーチとしての役割を果たした新井氏は充実感を覚えていた。

「自分の仕事は色々あるが、選手たちの頑張りもあり“打てるチーム”に在籍することができた2年間でした。2004年のキャンプの時に、全日本の指揮を執ることになっていた長嶋監督に『新井君、いいオーダーをこしらえたね』と褒められたことは、すごく嬉しく恐縮しました。このまま王監督の力になるつもりだったのですが……」

04年にオリックスと近鉄の合併問題、仰木氏から「俺、監督をやることになった」

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY