日ごとに減る会話、増えた「寝かせてくれ」 仰木監督が死力を尽くした合併球団1年目
合併球団初年度はリーグ4位でフィニッシュ「結果的に何もできなかった」
チームは7月に11勝7敗と初めて勝ち越しに成功したが、その後は失速し、最終的にはリーグ4位でフィニッシュした。合併球団の初年度は首位ソフトバンクに21.5ゲーム差と大きく離される結果に。相手の相性やデータを駆使し戦略を立てる“仰木野球”は、合併球団初年度のチームに上手く浸透させることはできなかった。
過酷な1年を過ごした仰木監督も、体力の限界を理由に1年で退任。合併問題を経て誕生した新球団を守るために、命を賭けた指揮官の挑戦は終わりを迎えた。
「なんとか支えようと思っていたが、結果的に何もできなかった。同じポジションでオリックス、近鉄の両チームのレギュラーが重なったために、オーダーを作っていく我々も、起用される選手も戸惑いの1年だった。チーム作りの難しさを改めて思い知らされた。まずは選手を知らないといけない。力量、個性を把握することが大事だった。一番、間近で仰木監督のことを見ていただけに、退任発表は驚きもなかった」
仰木監督はその後、球団のシニア・アドバイザーに就任したものの、退任2か月後の12月15日、福岡市内の病院で静かに息を引き取った。近鉄時代は監督と選手として、オリックスでは指導者として名コンビを組んだ新井氏は「指導者として導いてくれたのは仰木監督。感謝しかない」と、恩師との別れを惜しんだ。
2年契約を結んでいた新井氏は翌2006年までチームに在籍して退団。その後、2007年~2008年までソフトバンク、2010年~2012年はオリックスで2軍監督を経験するなどコーチ業を続けた。そんな中、パ・リーグ一筋で数々の名打者を育てた新井氏に目を付けたのが、広島の松田元オーナーだった。
(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)