他球団の選手と会話禁止…破れば高額罰金 星野仙一監督が徹底した“鉄の掟”
中日での第1次星野政権で監督付広報を務めた早川実氏が語る闘将エピソード
早いもので、中日、阪神、楽天で監督を務めた星野仙一さんが亡くなって、もうすぐ5年になる。だが、この世にいなくても、その存在感は消えることがない。今もどこかで誰かが、星野さんのことを話している。そんな状態がずっと続いている感じだ。闘将の側近だった早川実氏もそう。話していれば、たどりつくのはやはりあの人のこと。今回は思い出すままに、強烈エピソードをいくつか語ってくれた。まずは鉄の掟・星野ルールから。【山口真司】
星野さんは1986年オフに中日ドラゴンズの監督に就任した。当時39歳。血気盛んな青年指揮官が、会見で中日ナインに向けて「覚悟しとけよ」と発言したのは有名な話だが、その通り、すさまじいばかりの闘気が常に立ち込めた。キャッチフレーズは「ハードプレーハード」。グラウンドは戦場、ユニホームは戦闘服、闘志なき者は去れ……。どの言葉にもまた、絶えず魂がこもっていた。
早川氏は、そんな闘将の第1次政権下で監督付広報を務めた。1軍投手コーチ補佐も兼務しながら、いつも星野さんのそばにいた。運転手でもあり、専属マネジャーでもあり、秘書でもあるみたいな……。1人何役もこなして、しかも激務。あるとき、星野さんに思い切って聞いたそうだ。「どうして僕が全部しなければいけないんですか」。普通の会社ならドライバーと秘書は別ではないか。それこそ車はハイヤーでもいいのではないか。そんな疑問もあったからだ。
星野さんは即答だった。「他人の前で野球の話ができるか! チームのこと、選手の肩がどうだとか、そんな話できんやろ、だから、おまえに運転手をやらせているんだ!」。そのエピソードを踏まえて早川氏はこう明かす。「あの人は、漏れることをものすごく嫌っていた。野球の試合そのものはひとつでも相手に情報を与えたら、マイナスだという考え方。そこまでしますかというくらいしていた」。