汚い、ずるいと批判も…「珍プレー大賞」で時の人に 審判に“事前通告”、元南海・立石充男の衝撃奇襲

元南海・立石充男氏【写真:山口真司】
元南海・立石充男氏【写真:山口真司】

元南海・立石充男氏が回顧…投手と遊撃手が「時間をつないでくれた」

 今なお語り継がれる伝説の“隠し球”がある。成功させたのはパ・リーグで初めて背番号「0」をつけた南海・立石充男内野手だ。1984年の「第2回プロ野球珍プレー・好プレー大賞」(フジテレビ系)では「珍プレー大賞」にも輝き、一躍、時の人にもなった。それにしても、あの時、いったい何が、そうさせたのか。最初から狙っていたのか、あそこまでうまくいくと思っていたのか。38年の時を経て、当事者の立石氏がその舞台裏を明かした。

「珍プレー・好プレー大賞」では、みのもんた氏の絶妙なナレーションがさらに笑いを増幅させた。テレビカメラがきっちりとらえていたのもすごいが、それほど立石氏の隠し球は、まさに相手の裏をかきながらの懸命なプレーだった。「あの番組の後は電車に乗っていても『隠し球の人』って言われましたよ。汚いとか、ずるいとか印象で言う人もいましたけどね。あれがアウトになったから良かったですけど、セーフだったらそれもまた逆に珍プレーだったんでしょうね」。

 伝説のシーンは1984年5月29日、西武球場での西武-南海戦、2回裏の西武の攻撃中に起きた。1死二、三塁で打者・行沢がセンターフライを打ち上げ、三塁走者の石毛がタッチアップでホームイン。二塁走者の駒崎もタッチアップで三塁に進んだ。その後だ。外野からの返球を受け取った三塁手・立石は投手にボールを返さず、自分のグラブの中へ。横目で駒崎の動きをうかがい、ベースを離れた瞬間に、猛突進して間一髪のタッチアウトを決めた。

「あの時、審判の五十嵐さんには、やりますよって感じで、ボールを持っていることを見せていたんです。審判はそれを知っても口にすることはできませんからね。で、ちょっと間があって、アウトにしたんですけど、五十嵐さんのコールは無茶苦茶早かったですよ」。もっとも、このプレー、立石氏一人の力だけでできたわけではない。「ピッチャーの畠山とショートの久保寺がうまいこと、時間をつないでくれたんです」。

 隠し球は当然、インプレー中でなければ成立しない。そして、ピッチャーがボールを持たずにマウンド付近にいればボークとなる。そうなれば、この場合は三塁走者を生還させてしまう。周りの協力は必要不可欠だった。「あの年、僕は2軍でも3回くらい隠し球を成功させていたんです。サードで2回、セカンドで1回かな。こっちがピンチの時にちょうどいいタイミングでやるんですよ。隙を見つけてね。畠山も久保寺もそれを知っていたんです」。

 まさに“あうんの呼吸”というやつだろう。「やるなって雰囲気が出ると、すぐ相手からタイムがかかってしまいますからね。もちろん『ボールは、ボールは』なんて言われたら終わりですけどね」。そういうすべてがうまくはまって伝説のシーンは生まれたわけだ。「野球百科ってのがあって、それを見てたら、隠し球があったんですよ。それでやり始めたって感じでしたね」。だが、この話にはさらに続きがあった。「実は、次の西武戦でもまたやっていたんですよ、隠し球を……」。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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