無名の“繰り上がりエース”がプロ入りできたワケ 「ラッキーだった」甲子園の星不在

元中日・山本昌氏【写真:山口真司】
元中日・山本昌氏【写真:山口真司】

横浜商・三浦将明が日本代表入り…神奈川選抜で山本昌にチャンスが巡ってきた

 50歳まで現役を続けたレジェンド左腕の山本昌氏は、1983年ドラフト会議で中日から5位指名を受けた。日大藤沢時代は2年夏も3年夏も神奈川大会でベスト8止まり。「部長先生に聞いたんですが、1回、グラウンドに大洋ホエールズのスカウトの方が来られたそうですが、ショートの子いいねって言って帰った。僕のことは言ってなかったそうなんです」。流れが変わったのは神奈川選抜に選ばれて好投したからだった。

 小学校でも中学校でも野球はしていたが、いずれも補欠。そこから高校時代に努力で日大藤沢のエースの座をつかんだ山本氏が脚光を浴びたのは3年夏(1983年)の練習試合だった。「僕らの代に神奈川県が選抜チームを作った。韓国選抜と試合をするためですが、その前に(社会人クラブの)ウイーンベースボールクラブと練習試合をやって、先発して7回1失点に抑えたんです」。

 さらに8月28日に横浜スタジアムで行われた韓国選抜との試合にも先発して、これまた7回2失点と好投。この2試合でプロスカウトの目に留まるようになった。いずれも先発したのだから、力量は認められていたわけだが、当初、エースではなかったという。「神奈川選抜の団結式は、その年の夏の甲子園大会前にあったんですが、エースはY校(横浜商)の三浦(将明投手)で背番号1。僕は2番手でした」

 それなのに、2試合とも先発できたのは三浦が不在だったからだ。夏の神奈川大会を制した横浜商は甲子園では決勝で桑田真澄、清原和博の1年生KKコンビを擁するPL学園(大阪)に敗れて準優勝。その年は春の選抜でも決勝で水野雄仁がエースで4番の池田に敗れて準優勝。春夏連続準VのY校のエース・三浦は、夏の甲子園大会後に日本代表メンバー入りし、米国西海岸、ハワイ遠征に向かうため、神奈川選抜から外れたのだった。「それで僕が繰り上がりでエースになったんです」。

中日では小松辰雄氏が着けていた背番号「34」を譲り受けた

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