自腹指令でヤケクソの贅沢渡米「頭にきた」 朝までデニーズで激論…大恩人への感謝
アイク生原さんは1992年に死去、山本昌氏は翌93年に最多勝に輝いた
「アイクさんは学生時代、キャッチャーだったんで、キャッチャーミットで捕ってね、ワンバウンドになるようなボールを体に当てながら、何百球も捕ってくれた。毎日ね。すごく感謝ですよ」。アイクさんには「このカーブは覚えるのに3年かかるよ」と言われたそうだ。「『3年もかかったら駄目じゃないですか』と言っても『いや、3年かかる』ってね」。
実際、時間がかかった。日本に戻ってからも練習を繰り返したが、なかなか、ものにできなかった。「やっと完成したのは1992年の終わりごろかな。本当に3年かかったですよ」と山本氏はしみじみと話す。思い出のカーブを試合で使えるようになった年に、アイクさんは帰らぬ人になった。「あの年は監督が高木(守道)さんで、星野さんは解説の仕事をされていたんですが、ある時、星野さんのご自宅に呼ばれたんです。『アイクが大変だ。ガンなんだ』って。シーズンが終わってお見舞いには行きましたけど……」。
2度目の米国修行の翌1990年シーズンは10勝をクリアした。1992年には13勝。カーブが完全に球種に加わった1993年は17勝をマークして最多勝に輝いた。どれもこれもアイクさんなしにはできなかったことだ。「亡くなったのは(92年の)秋季キャンプ中だったかな。すごくショックだったなぁ……」。もちろん、その後の山本氏の野球人生にも、あの頃の出来事がずっと、ずっと支えになったのは言うまでもない。
そして、もう一人の大恩人も今はこの世にいない。星野仙一氏。すでに、ここまでのエピソードにも何度も登場したように、それこそ思い出は山ほどある。「よく怒られたけど、いくら怒られても感謝しています。あの人には」と言いながら、闘将とのことを、もう一度振り返ってもらった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)