無死満塁の救援より「よっぽどキツい」 元プロの新米監督が過ごした“眠れない夜”
日本ハムとロッテでプレーした金森敬之氏、37歳の若さでパナソニック監督に就任
社会人野球の頂点を決める都市対抗野球が、14日に東京ドームで開幕した。近畿地区の第4代表として本戦に駒を進めたパナソニック野球部を今季から率いるのが、日本ハムとロッテ、さらには四国アイランドリーグの愛媛でもプレーした金森敬之監督だ。肩肘の怪我に泣かされた現役時代は、それでも度胸満点のリリーフとして鳴らした。ただ37歳と若くして就いた名門チームの監督業は未知の世界。特に都市対抗の予選では、何度も眠れない夜を過ごしたという。
金森監督は2017年のオフにロッテを戦力外となると、2018年にまず選手としてパナソニック入りした。1年後に現役引退し投手コーチに。そして昨オフに監督就任を要請された。「まだ早い。無理です」と一度は断ろうとしたという。ただこれほどの名門チームの監督のチャンスは、そう回ってくるものではない。腹をくくって引き受けたものの、待っていたのは未知なる経験の連続だ。
5月から6月にかけて行われた近畿地区予選では、山場と考えていたNTT西日本との2回戦に3-6で敗れた。「形にこだわって継投してしまって……プロの悪いところが出たというか、自分のミスでした」。失敗が頭を離れない。現役の時は野球を家に持ち込まないようにしていたが「嫁に初めて『家で野球のことを言っている』と言われました」と頭をかく。布団に入っても試合の場面が頭に浮かんだ「ホンマに寝られなかった。パッと起きてもまだ夜中で……」。敗者復活を経て代表権をつかむまで、苦しさしかない日々だった。
金森監督の現役時代のハイライトは、2009年の日本ハム時代に戦ったクライマックスシリーズだろう。この年レギュラーシーズンでは18試合に投げ防御率0.84。楽天とのセカンドステージ第2戦、8回無死満塁という場面でリリーフに指名された。無失点でしのぎ、チームも3-1で勝利。日本シリーズ進出に大きく近づいた。
「あの時は、呼んで欲しいと思っていましたよ。宮西(尚生)が残したランナーでしたけど、抑えたらヒーローになれると思っていました。言い方は悪いですけど、『俺が出したランナーじゃない』くらいに割り切っていました」。そして、指揮官として戦った都市対抗予選の緊張感は、あの大舞台をはるかに超えていた。
「よっぽどキツいですよ。コーチの鳥谷(敬=元阪神、ロッテ)さんも『プロよりキツい』と言っていました。負けたら先はないし、自分では何にもできないんです。選手には思い切ってやってほしいけど、自分では何もできない。選手のミスはこっちのせいだと思っていますし、後悔しないようにやり切ってほしいと祈るだけですよね」
チーム2年ぶりの代表権をつかむと、選手に胴上げされた。経験したことのない喜びだった。
強い日本ハムのエッセンスを取り入れた指導法…「でも丸パクリじゃダメなんです」
2003年のドラフト6巡目で指名され、日本ハム入りした。北海道に移転したチームが強くなっていく過程で、現役生活の前半を過ごした。当時の出会いは、今も生きている。監督就任が決まると、昨季日本一となったオリックスの中嶋聡監督、侍ジャパンの監督も努めた日本ハムの稲葉篤紀GMらに報告。すると、同じアドバイスを受けたという。
「やりたいようにやれって言われました。いろんな指導者のいいところは取り入れます。でも丸パクリじゃダメ。理解して伝えないと、説得力がなくなるということだと思っています」
現在ロッテの監督を務める吉井理人氏とは、投手コーチと選手の関係だった。「とりあえず選手としゃべるようにしているのは吉井さんの影響かもしれませんね。『昨日何してたん』とか、どうでもいいことかもしれませんけど、こいつ元気あるなとか、逆にへこんでるなとか気付くようになるんですよ」。
ロッテの金子誠コーチとは、現役時代に山梨県での自主トレに同行していた仲だ。「あれくらいの選手でも、とにかく基本を大事にしていたとは言っています。当たり前のことを当たり前にしよう、そのプレーができる体でいようとは伝えています」。そして梨田昌孝監督は「よくロッカーに来て、また明日明日、切り替えていこうとよく言っていました」。気がつけば金森監督も、敗戦後のロッカーで同じ行動をとっていた。
現役時代の悔いは「欲がなかった」ことだという。ギラギラはしていた。ただ「怪我が多すぎましたね。もっと必死にやったらよかった。だから運が回ってこなかったのかなと思います」。肩肘を痛め、活躍した直後の自主トレでは球場で捻挫。調子の良い時にインフルエンザにかかって登録抹消されたこともあった。「その度に焦っていましたね。自分の場所がなくなると」。
もし、怪我がなければ……。「まだ現役でやっているかもしれませんけど、こんな機会はつかめなかった。そう考えると、野球からは見放されていないなと思うんですよ」。中学時代の羽曳野ボーイズでは、ダルビッシュ有投手(パドレス)の1年先輩。パナソニックで現役を退く時、大きな花が届いた。「向こうは侍で世界一にもなった投手。だいぶ差をつけられちゃいましたけどね」。日本ハム時代には、考えもしなかったという指導者の道。人をつくる楽しさを、徐々に知りつつある。
(羽鳥慶太 / Keita Hatori)