V記念麻雀のはずが…衝撃の“トレード通告” ビールかけ直後に恩人が「家へ来い」
長内孝氏は1991年、リーグ優勝を決めた直後に指揮官から移籍を通告された
まさか、こんな日に……。1991年10月13日は元広島の強打者・長内孝氏にとって忘れられない日だ。大洋・銚子利夫内野手との1対1の交換トレードを通告された。カープがリーグ優勝を決めた日だった。広島市民球場でビールかけを行い、テレビ局の特番にも出演し、喜びいっぱい。そんなすべての行事が終わった後に言われた。「次の年は35(歳)になる年だし、びっくりした」という。「えーっ、今ですか」と思わず口にしたそうだ。
長内氏がプロ14年目の1989年、山本浩二氏が広島監督に就任した。現役時代からお世話になった大先輩だけに、何としても胴上げしたいとの気持ちでいっぱいだった。記念すべき山本カープの開幕戦(4月8日の阪神戦)には4番打者に指名された。意気に感じないわけがなかったが、同時に4番の重圧もヒシヒシと感じた。「全部を背負うポジション。3番や5番とは違う。浩二さんはそんな4番をずっと何年もやっておられた、ホント、すごいと思った」。
長内氏はこの年に22試合、4番を務めた。5月からはライバルの小早川毅彦氏に4番の座を奪われ、97試合、打率.273、11本塁打、42打点の成績だった。15年目の1990年シーズンも4月は代打中心だったが、5月からスタメン機会が増え、108試合、打率.268、11本塁打、40打点。ほぼ前年と同じくらいの数字を残した。
グラウンド外での仲間との思い出もある。「僕は酒が弱いんですよ。すぐ頭が痛くなるんでね。それでも飲みにはみんなと一緒に行った。カラオケをやると1番、2番、3番と歌うたびに乾杯するわけ。乾杯したら一気だから、もう頭がガンガンして……。それで『俺の得意のヤツでも一気しようや』って言って味噌汁を用意してもらった。僕は熱いのは平気だったけど、川端(順投手)とか他のやつらは『参った』ってなってね」。
それ以来、長内氏は酒席で「何かあったら、やるで、味噌汁で」と言うようになった。すると「長内さんは自分のペースでいいですよ」と言ってくれるようになったそうだ。そんな仲間たちとの別れ。それは突然、決まった。16年目の1991年シーズン、広島はリーグ優勝を成し遂げた。10月13日の阪神戦(広島)のダブルヘッダー第2試合に1-0で勝利して決めた。長内氏にとって念願の山本浩二監督の胴上げだったが、その日に大洋へのトレード移籍を通告された。
山本浩二監督から「大洋に行ってくれ。勉強のつもりで行って、帰って来い」
「ビールかけも記者会見も全部、終わった後、浩二さんが『ちょっと家に来い』って。もう夜中だったし『共通の知り合いの人も来ているから』って言われたので、『あっ、麻雀だな』って思った」。山本監督の家に行くと、知人たちに「優勝おめでとう」と祝福された。「ありがとうございます」と返している間も麻雀と思っていた。そんな時に監督から別の部屋に呼ばれた。「まぁ、座れ」と言われ「大洋に行ってくれ。2、3年勉強のつもりで行って、帰って来い」と……。
トレードの交換相手も銚子内野手と聞いた。そんな状況で10月19日から西武との日本シリーズにも第2戦、第4戦、第5戦の3試合に出場した。「実はあの時、ヘルニアで足がしびれてあまり感覚がなかった。シリーズは外してくれと言ったんですよ。足が動かないからね。それでも小早川の後に守備要員で使われていたわけ」。第4戦は7回に鈴木哲投手からソロアーチを放った。「ホームランなら、ゆっくり走れたからよかった。よく打てたなって感じだけどね」。
3勝4敗で西武に敗れたシリーズは広島の選手として最後の本番舞台であり、ホームランもカープでのラストとなったが「その時はシリーズを戦うことに必死で最後とか考える余裕もなかった」と言う。「監督にもオーナーにもすごくよくしてもらっていたし、現役を終わってからコーチで戻ってこいって言われたし、幸せなんじゃないかと思っていた」。こうして長内氏の広島での現役生活は16年目で終了した。最後までやれることはやったつもりだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)