「なんでお前が守るんや!」 鉄人の大記録ストップ…“代役”が浴びた強烈野次
葛城育郎氏は8年目の2007年に復活…2軍監督の進言から道が開けた
かつてオリックスと阪神で活躍した葛城育郎氏(現・株式会社葛城代表取締役、報徳学園コーチ)は現役時代、鉄人・金本知憲氏に「いろんな刺激をもらいました」と言う。練習量はもちろんのこと、打ち方や練習法なども積極的に質問したそうだ。金本氏の連続フルイニング出場記録が1492試合(世界記録)で止まった時、左翼のポジションに就いたのが葛城氏だった。
プロ6年目の2005年が1試合、7年目の2006年は出場機会なし。戦力外危機に陥りながら、葛城氏は8年目の2007年に復活した。「きっかけは2軍監督だった平田(勝男)さんです。オープン戦の時に1軍で若手がファースト守備でやらかして、(1軍監督の)岡田(彰布)さんが怒って『ファームでファーストできるやつおらんのか』ってなった時、平田さんが僕を推薦してくれたんです」。
合流したタイミングも良かったという。「ちょうど楽天とのオープン戦。相手は一場(靖弘投手)、たまたまキャッチャーが藤井(彰人)さん(現広島ヘッドコーチ)だったんです」。1学年上で近大出身の藤井捕手とは葛城氏が立命大時代から旧知の間柄。「藤井さんとは仲が良かったんで『やばいっす、この試合、打たないとやばいんで』って話をして、1打席目に真っ直ぐをライト前にカーンと打ったんです。それから1軍に帯同するようになったんです」。
若手のエラー、平田2軍監督の進言、楽天戦……。様々な条件が重なり葛城氏はチャンスを得て、きっちりつかんだ。そのまま開幕に突入し、2007年は1軍戦力になった。8月の終わりから9月上旬にかけて阪神が10連勝した際は3番や5番打者としても活躍。9月は月間打率が3割を超えた。2005年、2006年が苦しいシーズンだっただけに「自分がまさかとも思いましたけどね」。そんな時、心強い存在が金本氏だった。
「3番や5番を打っても(4番に)カネさんがいたんで安心感みたいなものがありました」。よく質問したという。「こういう時はどうしたらいいですか、とか、なんでこうしているんですか、とか……。なんでこういう打ち方、こういう練習をしているんですか、というのも聞いていましたね」。もちろん、金本氏の猛烈な練習量にも刺激を受けた。「あんなすごい人でもあれだけやっている。そう思うとやはりねぇ…」。
金本知憲氏から「なんでお前はもっと練習せんかったんや」
金本氏の背中を見て、葛城氏は続こうと頑張った。練習にも励んだ。すべてが手本だった。そんな時の言葉が忘れられない。「カネさんに言われたんです。『そこそこやれていた時に、なんでお前はもっと練習せんかったんや』って。『お前はそこで練習をサボったから落ちていっただろ。もうちょっとやっていたら、ガーンといっていただろう。もっとやれたはずなのに、お前はサボった』って。厳しかったです。これは今でも言われます」。
葛城氏にしてみれば、自身の中では精一杯やったつもりだった。だが、金本氏の目には物足りなく映っていた。「言われて、ああ、そうやったかって思いました。でも、その時はわからなかった……」。鉄人の凄さを改めて感じた。
2010年4月18日の横浜戦(横浜)。金本氏の連続試合フルイニング出場記録が止まった時、葛城氏が、金本氏の定位置だったレフトのポジションに就いた。「スタンドから『なんでお前が守るんや!』って言われたのも覚えています」。その前日、金本氏と食事をしていたそうで「カネさんの肩の状態が良くないのはわかってましたけど、その時は『明日朝起きて、奇跡的に痛みがなくなっていない限り、無理やと思う』と言われていたので、そうなのかなって……」。
この試合でレフトに就いたのは巡り合わせだった。「相手の先発が左ピッチャーなら僕じゃなかった。その日、右の三浦(大輔)さんだったから僕が入ったと思います」。阪神で金本氏以外の選手がレフトを守ったのは、金本氏が阪神にFA移籍する前の2002年10月14日以来だった。振り返れば、これも“縁”ということだろう。現役時代の鉄人との思い出は、葛城氏にとって何物にも代え難い。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)