球速120キロ未満→158キロ“ドラ1”へ 未来を見据えた指導…育成年代に必要な「見極め」
恩師が語る東洋大・細野晴希投手の中学時代…まずは“食べる努力”から
先月26日のドラフト会議で、日本ハムから1位指名を受けた東洋大・細野晴希投手。今ドラフト候補で最速の158キロを投じる左腕だが、東海大菅生中等部時代は体が小さく、球速も120キロに満たないピッチャーだったという。“ドラ1”の剛腕として名を馳せるようになるまでの過程には、本人の努力と共に、成長度合いに個人差が大きい中学年代における監督の“見極め”と、適切な指導があった。同中等部・軟式野球クラブの村上晋監督に話を聞いた。
小学2年で野球を始めた細野が、中等部に入学しクラブの門を叩いたのは、2014年4月。村上監督は第一印象を、こう振り返る。
「持ってきたのが青色のグラブだったんです。随分、マニアックだなと(笑)。あと、身長の割に足がとても大きかった。それがすごく印象的でしたね」
マウンドさばきやキャッチボールの柔らかさなどには、天性のものがあった。とはいえ、現在では180センチ、86キロの体格も、入学時は146センチ、42キロ。高等部の野球部部長として春夏3度の甲子園を経験し、2002年からは中等部の顧問として、育成年代を見つめてきた指揮官は「今じゃないな」と感じたという。
「今やらせたら、体が壊れてしまう。まずは体づくり優先。だから球数も放らせず、試合でもほとんど投げさせることはありませんでした」
高校野球以降を見据えて、できることに取り組ませる。足の大きさから、「絶対に体は大きくなる」という確信はあったため、まずはきちんと食べさせることから指導した。栄養摂取もトレーニングの一環。余った給食も用意し、どんどん“食べる努力”に取り組ませたという。その甲斐もあり、入学から1年半で一気に165センチ、55キロにまで体は成長した。
体ができてくれば、あとは細野本人の持ち前の「向上心」がある。どこか飄々としていてマイペースなところもあったというが、「当時から意識が高く、研究熱心だった」と村上監督。投球フォームやボールの角度の付け方などを試行錯誤をしながらものにしていき、鋭く縦変化するドロップなどは「教えてできるものではない、人にはないものを身につけていた」という。
「諦めずにやっていけば、結果は必ずついてくる」と細野
また、球数は投げない分、牽制の練習はどんどんさせた。それが、のちに高校、大学で、試合の流れを変える牽制アウトを幾度もとり、評価を高めた技術につながっていく。結局、背番号「1」を着けたのは中3最後の大会だけだったが、プロにつながる土台は着々と築き上げられていったのだ。
「これは自分にとってプラスになる、ということが自分で判断でき、努力ができるタイプでしたね。だから、普段の学校生活でもブレませんでした。マイペースなので、ちょっと遅刻しそうになることはありましたけど(笑)、成績も良かったですし、他の先生方も『細野は違ったよね』という話をしますね」
東亜学園高では3年夏に都大会初戦敗退を喫する苦い経験も味わったが、東洋大では1年秋から“戦国東都”でデビューを果たし、今春には2部で5勝0敗、防御率0.82の快投で、1部昇格の立役者に。その間に球速も着実に伸びていき、8月28日に東京ドームで行われた「侍ジャパン」U-18代表との試合で、ついに158キロをマークするまでになった。
「“158”を投げるようになるなんて、全く想像もつきませんでしたね。プロに行くという目標は当時からあったのでしょうが、そのためにも『速い球を投げる』という自分の中でのイメージがあり、それに向けてトレーニングをしていった。いろんな経験をしながら、階段を少しずつ上ってきた彼の努力があったからだと思います」
細野本人も「中学の頃は結構、小さかったですけど、体の大きさは正直、関係ない。諦めずにやっていけば、結果は必ずついてくるということを(子どもたちに)伝えたいですね」と語ってくれた。現在でも、時間があるときに母校のグラウンドに顔を見せにくることがあるという。プロの夢をつかみ取った先輩の姿は、未来に向かう後輩たちへの、何よりの励みとなるに違いない。
(高橋幸司 / Koji Takahashi)
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