肘ボロボロ…引退覚悟も「巨人でなくてもいい」 球速急低下も、移籍で迎えた新境地

元巨人・角盈男氏【写真:荒川祐史】
元巨人・角盈男氏【写真:荒川祐史】

角盈男氏がプロ12年目にして“第2の野球人生”を歩み始めた理由

 角盈男氏は巨人の守護神として活躍。球団最多タイの93セーブをあげた。計3球団で通算618試合、38勝99セーブをマークした「変則左腕」のパイオニア的存在が、現役晩年を振り返った。

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 サイドスローに転向して最優秀救援のタイトルを獲得し、1980年代に巨人でクローザーとして活躍した角氏。少年時代に憧れたアニメのように「巨人の星」として輝いた。しかし、世代交代の過渡期を迎え、次第に出番は減っていった。

 1989年に始まる「藤田元司・第2次政権」では、槙原寛己(1989年12勝、21完投)、斎藤雅樹(同20勝、21完投)、桑田真澄(同17勝、20完投)の「先発3本柱」の成長が著しかった。1歳上の怪物・江川卓はすでに引退し、同い年の西本聖は中日に移籍した。

 日本ハムの近藤貞雄監督から、トレード期限前日の6月29日に角氏に獲得の打診があった。3日前に33歳になったばかり。同い年の定岡正二は近鉄へのトレードを拒否し、29歳でユニホームを脱いでいた。「もう左肘も、右太もももボロボロで、引退の決意を固めていた」という角氏だが、後援者に相談して意見を求めた。

「巨人でなくてもいいんです。角さんのユニホーム姿を見ていたいんです」

「ありがとう。ならば、自分のためではなく、応援してくれる人のために野球をやろう!」

 日本ハムでは先発を任された。当時のNPB記録である連続リリーフ登板は423試合で途絶えたものの、プロ12年目にして迎えた第2の野球人生。10年ぶりに踏む「きれいなマウンド」は新鮮だった。「何より、登板日翌日に『あがり』があるのがうれしかったですね」。

 1989年から3年連続して10試合以上に先発。計5完投も記録した。

阪神との死闘を制した「ベテラン貫禄」の投球術

 1992年、今度はヤクルトの野村克也監督から声が掛かった。「老いた自分でも必要としてくれるなら、どこにでも行きますよ!」。

 この年のセ・リーグは史上まれに見る大混戦となった。最初に広島が落ち、次に巨人が落ちた。最後は1か月にわたる阪神とのマッチレース。ヤクルトは1試合を残し、130試合目で勝利の美酒に酔った。最終的に2位の巨人、阪神とは2勝、2ゲーム差だった。

 角氏は終盤のシビれる場面、薄氷のマウンドを踏んだ。19歳ルーキーの150キロ左腕・石井一久は12試合を投げ0勝だったが、36歳の135キロ左腕・角氏は、チームトップの46試合を投げ、2勝5セーブ。まさに、値千金の“2勝”だった。

「どんなにいいところに決まっても、ボール球はボール球。コースか高さか、どちらかストライクゾーンぎりぎりに餌をまくんですよ」。投球とはスピードだけではない。シーズン途中には、史上28人目の通算600試合登板に到達。幾多の修羅場をくぐってきた貫禄の投球術を、まざまざと見せつけた。

「1年目に種をまき、2年目に水をやり、3年目に花を咲かせてみせましょう」。野村監督就任3年目、何度もしおれそうになりながら、神宮の地で花は咲き誇り、結実した。角氏の貢献もあり、ヤクルトは14年ぶりに優勝という名の果実をもぎ取ったのだ。

 通算618試合登板、38勝60敗、防御率3.06、セーブ数は99。その年限りでユニホームを脱ぐ決意をした角氏に、野村監督はこう言った。

「角、お前、勝手に引退しやがって。あと1つ。通算100セーブ達成が残っているだろう」

「野村監督、もうそのひとこと、お気持ちだけで十分ですよ」

 記録にはこだわらない。「現役15年、思い残すことはありません」。“人のために”腕を思い切り振った左サイドスローの勇姿は、野球ファンのまぶたに今もしっかりと焼き付いている。

(石川大弥 / Hiroya Ishikawa)

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